- 817 名前:君がくれた笑顔 投稿日:03/08/22 18:20 ID:???
- 一人暮らしの日々のなんでもない一日。神楽のもとに唐突に電話がかかってきた。
「今度の連休、予定を空けてくれないか?」
電話越しに聞こえた榊の声は切実で、何か思いつめたように聞こえた。
『空いてないか』ではなく、『空けてくれないか』。いつもの榊からは考えられない積極的な態度に
神楽は何かあるな、と感じとり、その要求を快く受け入れた。
「船を使うから時間がかかる。三日分くらいの旅行の準備をしてほしい。交通費は私が出す」
口調を変えずに榊は続けた。
「旅行か? 交通費くらい自分で出すって。で、どこ行くんだ?」
対して神楽は軽く明るい口調で――榊があまりにも重々しい口調だったからだ――尋ねた。
「西表島」榊は簡潔に答えた。「……マヤーを帰しに行く」
「本気なのか、榊!?」
それは電話口でも訊いたことだったが、今こうして出発のために榊の住まいを訪ねてみても訊いてしまうものだった。
声を荒らげた客人にマヤーは驚き、威嚇のような動作を始めた。
「あ、ゴメンゴメン」
神楽がマヤーに向かって謝ると、それを理解したのか、マヤーは臨戦態勢を解いた。
「……もう決めたことなんだ」
うつむいたまま榊は答え、さらに続けた。
「もうこの子も大人になった。だから故郷で生きるべきなんだ。私はこの子の親代わりのつもりでいたけど、
いつまでもこのままじゃいけない。それに君も最初は反対していたじゃないか」
「それは……」
確かに、神楽は一時期榊が特別天然記念物であるイリオモテヤマネコを飼うことを反対していた。
だが、それでも……
「さあ、出発しよう」
榊はあくまで感情を押し殺した声で言った。それは会ったばかりの頃のようなとっつきにくい彼女を彷彿とさせた。
- 818 名前:君がくれた笑顔 投稿日:03/08/22 18:21 ID:???
- 西表島へと向かう船の中、榊はマヤーとの思い出に浸っていた。
修学旅行の離島プランで私たちが行くことになった西表島。イリオモテヤマネコの数自体が少ないから会えるとは
期待していなかった。神楽が「手を出してりゃ噛みに出てくるかもしんないぞ」なんて言ったけど私は冗談に
つきあってみただけで、本気で出てくるなんて思ってなかった。
だからマヤーが出てきたとき、マヤーを撫でられたとき、マヤーを抱き上げたとき、
誰よりも驚いていたのは私だったと思う。
それからマヤーを抱きながら島を観光して回った。とても楽しい時間だった。
あのときマヤーと見た景色はみんな覚えている。浦内川も、マリュドの滝も、みんな覚えている。
でも、どんなに美しい景色よりも私の心に残ったのは一番近くにいたマヤーだった。
やっぱり連れて帰ってはいけない。たった一日だったけど、初めて心通った猫との出会いは私にとって
一番の思い出だった。そして、いつかまた会えるような気がした。
今でも思う。――あれは運命だったのだろうか?
- 819 名前:君がくれた笑顔 投稿日:03/08/22 18:21 ID:???
- インターネットをやっていてイリオモテヤマネコの交通事故の記事を読んだとき、それがマヤーの母親だった気がした。
あの子は大丈夫かな? そんな心配をしていたある日、かみネコ達に襲われそうになって――
マヤーが助けてくれた。マヤーがどうやって私の所までやって来たのかはわからない。
ただわかるのはマヤーの必死な想い。きっと私を信じて大変な思いをして私のもとへやってきてくれた。
だから私はこの子の気持ちに全力でこたえてあげなきゃいけない。この子の生きる力になってやるのが私の役目なんだ。
マヤーのことでしばらくちよちゃんの家にお世話になった。部屋でマヤーとゴロゴロしてるのをちよちゃんに見られた
ときは恥ずかしかったけど、ちよちゃんがそんな私をかわいいと言ってくれたのがすごく嬉しかった。
今まで隠していた本当の私を見てもらえた喜びをそのとき初めて知った。
これは私の勝手な想像だけど……ちよちゃんが、神楽が、みんなが私とマヤーを出会わせてくれた。
孤独で、内気で、人を遠ざけて、自分をひた隠しにして。そんな私をみんなが変えてくれたから私は本当の猫に会えた。
そんな気がする。だからみんなには感謝している。みんなもマヤーも、かけがえのない友達だと思う。
大学に進学し、念願かなって一人暮らし、いや、マヤーとの二人暮しを始めた。
獣医の勉強は決して楽なものじゃなかった。挫けそうなくらい辛いこともたくさんあった。
そんなときもマヤーのおかげで乗り越えられた。マヤーがいつも一緒にいてくれた。
マヤーは私を支え続けてくれた。そして私もその分マヤーの力になってやれたと思う。
でも、もう私もこの子も大人になった。この子は自然の中で生きていくべきなんだ。
一緒の生活の中で時折見せたヤマネコの野性は私を困らせたものだった。
ペットの飼い主になるということの意味を、動物を愛するということの意味を思い知らされた。
今ではそれも楽しい思い出になっている。
大丈夫、この子ならきっと強く生きていける。だから私も……
- 820 名前:君がくれた笑顔 投稿日:03/08/22 18:22 ID:???
- 西表島へと向かう船の中、神楽は榊とマヤーのことを思い返していた。
きっかけは西表島でのちょっとした冗談だった。まさか本当に出てくるなんて思わなかった。
マヤーを撫でられたときの榊の驚きようはすごかったな。「ヤママヤー!」なんて叫んじゃったりしてさ。
島の観光はマヤーも一緒だった。でも、島のどんな景色よりも私の心に残ったのはあのときの榊の笑顔だった。
今まで私たちの誰にも見せたことのなかった笑顔。なんだかすごく印象的だった。
……そして……なんだか口惜しかった。私がどんなにつっかかってもあんな笑顔は見せたことなかったのに。
私は観光の間、榊とマヤーの時間を大切にしてやった。榊の笑顔がとてもすてきだったから。
島から帰る船の中、私は泣いて手を振る榊に声をかけることができなかった。
でも榊はきっとまた会えるって言ってた。そんな榊の強さが羨ましかった。
一人暮らしを始めたら猫を飼おうって言った。それがまさかマヤーになるとは思わなかったけど。
始めの頃はずいぶん反対していたっけ。やってることは犯罪行為だし、榊にそんなことはして欲しくなかったから。
それともあれはマヤーに対するやきもちだったのかな……そんなばかばかしい考えはやめよう。
でも、マヤーと触れ合っている榊を見ているうちにそんな意識もいつのまにかなくなっていた。
マヤーと一緒にいるのが榊の幸せなんだ。そう思うと私もマヤーのことを好きになれた。
榊だけでなくマヤーも私の大切な友達となっていった。
榊は一人暮らしを始めたけど、獣医の勉強は辛いこともたくさんあったはずだ。……例えば解剖とか。
きっとマヤーはそんな榊の心の支えになってやったのだろう。それはマヤーだけができたことなんだ。
榊がマヤーの親の代わりになってやることで、榊もマヤーに支えられた。それが二人の関係だと思っていた。
だから榊の電話には耳を疑った。マヤーを飼うと決めたときよりも強く反対したかもしれない。
なぜマヤーを帰す決意をしたのか、榊の横顔を見ているうちになんとなくわかってきた。
……これが大人になるっていうことなんだろうな。
- 821 名前:君がくれた笑顔 投稿日:03/08/22 18:23 ID:???
- 「榊、本当にいいのか?」
ここに来るまでに何十回訊いたことだろうか。それに榊は何十回と沈黙で答えた。
神楽にもわかっていた。マヤーここで生きるべきだ。それが彼のあるべき姿だ。
だが理屈でわかっていても感情がそれに抗う。榊がマヤーを飼うことを知ったときとは正反対だった。
二人は島に着くと、マヤーと共に島を観光して回った。榊とマヤーにとっての最後の思い出とするために。
ここはその観光コースの終わり、帰りの船が出る港の近く、修学旅行のときの、別れの場所である。
日の傾きかけた時刻、二人の心とは裏腹に空と風は爽やかだった。
榊はマヤーを抱きしめた。その温もりをしっかりと記憶しておくように。
そしてマヤーを降ろし、あのときのように言い聞かせた。
「マヤー、ここでお別れだ」
しかし、言われても動かずに榊を見つめていた。その瞳に宿る感情と、それの原因を見抜いているかのようだった。
ならばマヤーにとってはますます別れ難い。榊の足元にすり寄ってゆく。
だが、榊はそれを優しく拒んだ。
「君はもう大人だ。一人でもここで生きていける。いや、生きていかなくちゃいけないんだ」
マヤーは再び榊の瞳を見つめた。
「私は大丈夫、がんばっていける。だから君も……強く、生きるんだ。」
榊は途切れ途切れに言った。榊の瞳に溜まっているものが神楽から見てもすぐにわかった。
「さあ、行くんだ」
その言葉にマヤーは榊に背を向け、歩き出し、森へと帰っていった。彼の生きるべき場所へと。
本当は榊自身が一番マヤーと別れ難い。だがマヤーの未来のためにあえてこの決断をした。
マヤーはそれをわかった上で自らも別れを選んだのだろう。
賢い子だ。榊も神楽もそう思った。二人はマヤーがこれから生きてゆく森を見つめ続けていた。
- 822 名前:君がくれた笑顔 投稿日:03/08/22 18:23 ID:???
- 「行こう」
榊はその森から顔を背けて言った。その様子に榊が無理をしていることがありありと伝わってきた。
ここに来たときから、いや、マヤーとの別れを決意したときから榊はずっと感情を押し殺していたのだ。
しかし抑えようとすればするほど想いは溢れ出してくる。もうそれは限界に来ていた。
「泣かないって……決めてたのに……」
榊は声と肩を震わせる。神楽がそんな榊へと告げた。
「……榊、無理すんなよ。おまえは一人じゃない」
しばしの沈黙。そして
「神楽……かぐらぁっ!」
それまで耐え続けてきた榊にとって、神楽の優しさが最後の一押しだった。榊は神楽の胸に飛びこんでゆく。
神楽は自分よりも大きい身体の親友をしっかりと受けとめた。
榊は声を上げて神楽の胸の中でマヤーとの別れの悲しみを、一人の時を思う切なさを、
大切なものを手放した喪失感を流し続けた。あらゆる感情が神楽の胸を濡らした。
なんだよ……私まで泣けてきちゃうじゃないか……
ダメだ……私は泣いちゃダメだ……今は榊が泣く番なんだから……
神楽は榊を抱きしめながら空へと目を向ける。滲んだ視界に紅くなりかけた太陽が神楽の目にしみた。
よく晴れた空の下、神楽の胸に抱かれた榊の頭上で温かい雨が降った。
- 823 名前:君がくれた笑顔 投稿日:03/08/22 18:34 ID:???
- 榊の気持ちが落ち着いてきた頃には、すでに世界は夕日に赤く染まっていた。
「神楽、ありがとう。こんなところまでつきあってもらって」
「いいって、このくらい。友達だろ!」
神楽はいつものように榊に笑いかける。
そして榊は理解した。自分がこの別れの場所に神楽を連れて来た理由を。
別れを惜しむ自分の背中を誰かに後押しして欲しかったから。誰かと一緒なら泣かずにすむと思ったから。
「私はそういうつもりだった。でも本当はそうじゃなかった」
榊が『神楽を』選んだ理由。神楽『だけ』を連れて来た理由。
「神楽に、私の涙を受けとめてもらいたかったんだ」
それを聞いて、神楽は黄昏の世界の中でもはっきり識別できるくらい赤くなった。
「な、なんだよー 照れるじゃないか」
なんだか説明しがたい、嬉しさと恥ずかしさがごちゃまぜになったような気持ち。
「さあ、行こう」
榊は森に背を向け、港へ向かって歩き出す。そして榊は神楽へと振り返り、言った。
「神楽、ありがとう」
その動作に、榊の黒髪がふわっとなびいた。夕日に照らされている榊はとびきりの笑顔だった。
マヤーと一緒のときに見せていたあの笑顔。マヤーはいないけれど、今は神楽に向けている笑顔。
それは数々の生命が輝くこの島よりも、水平線に半分ほど姿を隠している夕日よりも、
それに照らされ紅く煌く海よりも――この世の何よりも美しかった。
そして、その笑顔を向けてもらったことが、神楽にとっては最高の喜びだった。
「……うん」
そして神楽はそれに応える。美しい世界の中を、美しい人と肩を並べて歩いてゆく。
- 824 名前:君がくれた笑顔 投稿日:03/08/22 18:35 ID:???
- 私は涙を流したけれど、その跡には君と過ごした日々への感謝が残った。
私は君が好きだった。君も私を好きだった。だから、ずっと忘れない。
離れても思い出は残っている。思い出せば、またいつでも笑顔になれる。
それが、君のくれた宝物。
マヤー、おまえと別れてしまうことは私にとっても悲しい。それは大切な友達と離れてしまうことなんだから。
でもな、本当は榊はおまえを失ってしまったわけじゃない。持ち帰っているんだ。そう、おまえとの思い出を。
ずっと一緒っていうのはそういうことだ。おまえも榊のことを忘れないならずっと一緒だ。
今、並んで歩いている榊の笑顔はとてもすてきだよ。だから……
「……ありがとう」
「どうしたの、神楽?」
「ん……なんだかマヤーにお礼を言いたくなった」
(おしまい)