- 457 名前:路 (1) 投稿日:03/05/19 23:32 ID:???
- 『判ったわよ、母さん。明日じゅうに答え出すから……』
受話器に向けて、溜め息混じりにそう告げたのは昨晩のことだ。
見合い話への態度を曖昧にし続けるのも、いよいよ限界だったから。
春先の暖気とトーストの香ばしい匂いの中でも、みなもの心は落ち着けなかった。
迷うのは、見合いそのものにだけではない。見合い話にぐらつく自分の心の老いようにも、だ。
自分も教え子たちと同年代の少女だった頃には、こんな事を予想もしなかった。
恋は純粋に楽しくて、その先に躓きなどあり得ないと思えていたし、
それなりにもててもいて、性的な自尊心は常に保っていられたものだ。
なのに。かつて身も心も許したはずの幾つかの関係は、
今ではむしろあまり思い出したくない記憶へと落ちぶれていて、
二十代も後半に差しかかった自分はなぜか、独りでいる事の不安に追いたてられる羽目になっていた。
それでいよいよ、ほとんど知りもしない相手と結婚前提の付き合いをする事にも、
どこか期待を込めてしまいそうにさえなっているわけか。
出会い系だの合コンだのにうつつを抜かす軽い女とは違うと自己規定してはいるものの、
転がり込んできたチャンスにいそいそと飛びつきかねない今の性根を思えば、
それとこれとはどの程度違うだろうか。
でも、無理もないではないか?「いい話」なのだから。
身元。収入。将来性。家庭を持つには安心できるスペック、なのだから。
――そんな考え方を現実的に受け入れ始めている自分こそ、老いたものであるが……。
面倒な考えを振り払い、新聞を手に取ってテレビ欄を眺める。
が、歌番組の見出しにかつてのヒット曲のタイトルを見て、さらに憂鬱な思い出を蘇らせてしまった。
それは恋愛の素晴らしさと永遠性を歌い上げて、少女の頃の自分を魅了した歌。
初めて付き合った相手と一緒に、胸ときめかせてコンサートで聞いた歌。
その歌い手はやがて零落し、不倫と離婚の報道にまみれて姿を消した。
彼の歌を編集して作ったテープは、みなもの宝物だったこともある。
おととしラジカセを捨てた時、それとは決別を図ったつもりだった。
けれども結局そのテープ自体は、未だにCDとMDの奥へ厳かに安置されたままだ。
- 458 名前:路 (2) 投稿日:03/05/19 23:32 ID:???
- 桜並木が、道路の両側を流れてゆく。
傍らの助手席では、ゆかりがいつものように浅い眠りを貪っている。
今朝もまた、ゆかりは早く起こしてくれなかった母親に文句を垂れながら出てきたのだった。
数日前の夜、栄子と会ったあの後に二人で飲んだくれて帰った時も、電車に乗り込むなり、
着いたら起こしてねと言い捨ててさっさと眠り込んだものだ。全く、どこまで子供なのか。
みなもは自分でも時々、よく友達でい続けられるなと思う。
その呑気な寝顔に少し苛立ちを感じ、赤信号で止まったのを機にみなもは強く声をかけた。
「あんた、いい加減に早寝早起きしなさい」
あぁ…? と目を覚ますゆかりに、言葉を続ける。「どうせ昨夜も、またゲームでしょ!?」
だが意外にも、ゆかりは寝惚け顔の中に得意げな笑みを浮かべた。
「ふふん……ハズレー。進路関係の資料なんか調べてましたよーだ」
「あら? そう……」みなもは虚をつかれた。たまには真面目な事をするものだ。
ゆかりは、ここぞとばかりに言い募る。「にゃもも、ちゃんとやっとかないといかんですなあ。
あたしらも来月からはとうとう3年生の担任なんだしさあ」
「そうね……」みなもの返事に、気迫はなかった。
初めて受け持つ役割の重みを、どこか直視したくないような気持ちが未だにあったのだ。
生徒の進路を指導する。それはその先の人生に関わる事。今の自分に、そこまでの資格があるだろうか?
進学校という性質上、指導の大半は成績に基づく部分が多くなるだろう。
明白な数値の問題。判り易い一方で、過酷に当人のレベルを突き付ける規格化の世界。
少なからぬ生徒にとって、進路選択とは妥協と下方修正の結果となる。
現実を知れ、と言い渡すのが、つまりはその場合の自分の役目。
(現実かぁ……)自分の時はどうだっけ。大学に入る時点までは、結構自信があった気がする。
今思えば、あの頃こそモラトリアムだったわけだ。本当の身の程を非情に思い知らされるまでの。
もちろん、こうして体育教師にはなれたのだし、それは好きなスポーツに関われる職業として
現実的な選択には違いなかったのだけれど――。
みなもは、つぶやきを漏らした。「やっぱり、ちょっと気が重いな」
「……まーね」
一拍おいてのゆかりの返答は、意外にも重々しかった。
- 459 名前:路 (3) 投稿日:03/05/19 23:33 ID:???
- ホームルームへ向かう途中、みなもは担任のクラスの女子生徒二人が
トイレから出てくるのに出くわした。
「あ、先生おはよー。そうだ、先生なら……。あのですね、こいつの考え、どう思います?」
聞けば、要するにファッションの話だ。問題のコーディネートが、
ダサいのか、それとも流行にちゃんと乗っているのか。いつの時代も変わらない、少女たちのお喋り。
自分には得意な分野。生徒にもついていける。「そうね、カジュアルに決めるんだったら……」
だが、みなもの案を聞いた瞬間、二人は顔を見合わせ、口を揃えてダメ出しをした。
「先生、それ古すぎ」「うん」
(え!?)内心密かに動揺するみなもを、一人がしげしげと見回して追い打ちをかけた。
「……先生、襟の後ろがめくれてる。ちゃんと見ないと、気にしなくなったらオバサンだよ?」
「こら!」軽く怒ってみせると、二人はいたずらっぽく笑いながら教室に戻っていった。
みなもはトイレに入り、鏡の前でそそくさと襟を直す。
今のは結構、効いた。「生徒に人気の、若く綺麗でセンスのいい先生」であるはずなのに――。
そんな自惚れめいた自己像は、思った以上に小さなプライドを支えていたようだ。
見合いを勧める母親の言葉が蘇った。『いつまでも若いわけじゃないんだから』――。
そう、綺麗事をどう言いつくろったところで、歳とともに「女性」としての価値が落ちていくのは
この世の冷酷な真実だ。そういう意味での人気を生徒から得ていられるのも長くはない。
子供たちは時としてひどく残酷だから、そうなれば容赦はしてくれないかもしれない。
もはや自分は生徒の間で「黒沢先生」とも「にゃもちゃん」とも呼ばれず、
他の老いた先生たちと同じように、呼び捨ての「黒沢」でしかなくなっていくのかもしれない。
そして、あの職員室という垢抜けない空間の手狭さは、そんなふうに老いながら
この先何十年も座り続ける自分の姿を、あまりにも容易に想像させるものだった。
「はぁ……」みなもは、何とはなしに溜め息を漏らした。ふと思い出すのは、あの時の栄子の姿。
若くして課長になったと言っていたが、それも納得させてしまう雰囲気だった。
高級レストランに相応しい上品な化粧の仕方、スーツの着こなし、そして指に輝く結婚指輪。
- 460 名前:路 (4) 投稿日:03/05/19 23:35 ID:???
- 栄子は順調に大人になっていて、大人の自信に満ち溢れていて。
自分のプライドを支えられる物をどんどん手に入れているように見えた。
あの人に比べたら、私はまるで子供――。
そしてその栄子からは、思いがけず振られた転職の話があった。
系列会社が経営する高級スポーツジムのインストラクター、それもチーフという事だっけ。
今の仕事が好きだから、と断った言葉に、あのとき嘘はなかったつもりだ。でも……。
『給料倍増間違いなしよ』と誘う生臭い言葉を、しかし平然と忘れられるわけでもないし、
スポーツに関わる仕事としても、学生相手より本格的かもしれない。
そして何よりそちらには、ここにはない何かがありそうにも思えてしまうのだった。
そう、より栄子の世界に近い何か――。
揺れ動いている自分にふと気づいて、みなもは首を振った。(ああ、今日はおかしいな)
何だか自分について考えさせる事柄が重なって、調子を狂わされてしまっている。
だが、そうは思ってみるものの、選択を決めなければならないという現実からは逃れようもない。
自分の喉元に突き付けられた身も蓋もない問題からは、決して目を背けることができないままなのだ。
――果たして、将来決して後悔しないほど、現状を好きでい続けられるだろうか?
独りのままで。あるいは、この仕事のままで。
思えば、今の局面こそまさに進路選択だった。
――何だか、余裕がない。
そんな焦燥感にうつむきながらトイレを出たとき、声をかけてくる者がいた。
「おや、黒沢先生。お元気がないようですが、何か」
木村だった。正直、あまり相談したい相手ではない。
「え、ええ。その……」並んで廊下を歩きながら、一番体裁のよい悩みだけを口にする。
「今度、3年生の担当って事で、ちょっと不安が……」
「ああ、わかりますよ。私も初めはそうでしたからな」木村は好意的に微笑んだ。
「しかし今にして思えば、やはり未来ある若者を自分の手で送り出してこそ
教師冥利に尽きるというものでしたよ。ご相談にはいつでも乗りますから、
来年は一緒に頑張っていきましょう。それでは」
「は、はあ……」教室へ入っていく木村を、みなもは驚きの目で見送った。
何だか、虚をつかれることも多い日だ。
- 461 名前:路 (5) 投稿日:03/05/19 23:35 ID:???
- 「はーい、チーム分けは済んだわね。それじゃ、コートに入ってゲーム始めて」
薄曇りした空の下で、少女たちはぞろぞろとサッカーをしに散っていく。
それを見届けながら、みなもは密かに目を閉じて伸びをした。
結局、午後になっても考えはまとまっていなかった。
この授業が終わるまでの時間で、どうにか整理ぐらいはつけておきたい。
生徒に試合を勝手にやらせて自分は考え事に集中するなど、全く不謹慎もいいところだけれど――。
「今日は榊ちゃんだけ向こうのチームになってもうたな。みんな一緒になることってないねんなあ」
「必ず神楽とは別々にしないと、試合にならないからなー。
ま、あたしの秘めた実力も忘れてもらっちゃ困るけどね」
「はいはい、今日こそ遠慮しねえで大活躍してくれよな」
「そういうよみこそ頑張って、『今度はサッカーダイエット』なんてネタで行けばあ?」
「え、ネタって何ですか?」「それはねえ……」「こいつっ!!」
あの呑気なグループの、呑気な会話。みなもの知る生徒たちの中でも特に子供っぽい、
モラトリアムそのものといった少女たちだ。今の状況で眺めていると、どこかうらやましくも思える。
自分も子供に戻って、あの中に混じれたら――そんな夢想が、ふと心をよぎった。
どうせ大人になりきれていないのならば、と自嘲的に思ってもみて。
フォーメーションの概念もほとんど浸透していない女子のサッカーで、
ボールは何かというと両チームのエースに委ねられる形だった。
しかも大してパスワークなど考えずに渡されるから、
結果として神楽と榊の二人は、ボールをめぐって幾度となくぶつかり合う。
考え事のかたわら試合を見守りながら、みなもには神楽の様子が気にかかっていた。
体調の悪さが微妙にうかがえる。挙動ごとの疲労が大きいようなのだ。
それでもなお、神楽はいつものようによく頑張る。春先だというのに汗まで滲ませ、
1点のリードを勝ち取ってもいる。
それは、インターハイを目標に毎日遅くまでトレーニングに励んでいる姿と重なって見えた。
- 462 名前:路 (6) 投稿日:03/05/19 23:36 ID:???
- ゴール前まで走り込んだ榊にパスが上がる。全速力で追いかけてマークに入った神楽が、
激しいダッシュでそれに食らいついてカットし、大きくクリアーした。
しかしその後、いつもならすぐセンターへ戻っていくはずの神楽は、
辛そうに額を押さえながらその場に残っていた。
「神楽さん、どうかしたんですか?」
戦力にならないので大阪と一緒にゴール前へ下げられているちよが、心配そうに訊いた。
「大丈夫だよ、ちよちゃん」様子を見に来た暦が、割って入った。
「でも神楽、少し休んだらどうだ。終わりも近いし、私たちで守り切るからさ」
「……すまねえ。ちょっとだけ、そうさせてもらうよ」神楽は重い足取りで場を離れる。
コートから出てきた神楽に、みなもは歩み寄って声をかけた。「神楽……今日の部活どうする?」
「行きますよ。ちょっと軽めにしてもらうかもしれませんけど……」
神楽は即答し、そして苛立ちのこもった溜め息をつく。
「何かもう、自分の身体が憎たらしい……。今、こんな機能なんて要らないのに」
みなもは返答に詰まった。そう、かつては自分も同じ苛立ちを抱いたのだ。
しかし今では、そうだねと気安く同意することもできない――未だ、必要になる見通しもないのに。
結局、出てくる言葉は当たり障りもないものだった。「……でも、きついなら無理はしなくても……」
「休んでられないです。最近じゃ、一日一日がすごく大事な感じで……」神楽はきっぱりと拒んだ。
「インハイ自体のこともですけど、自分の力がどの程度なのかって焦りもあるし、
それに進路も考えなきゃいけないだろうし……。何か、余裕がないっていうか。
それで、こないだちょっとあいつらに当たっちまったりもして」
「余裕……」みなもは、教え子の顔を見つめた。瑞々しい真摯さを湛えた表情。
「それに、ちよちゃんとマジ話しちゃったりとかも……」神楽は軽く苦笑いした。
「……子供のちよちゃんは、大人になりたいなんて簡単に言えちゃうんですね。
でも、大人になりかけの私は、不安なことばっかりで。そんなんじゃ、示しつかないってのに」
- 463 名前:路 (7) 投稿日:03/05/19 23:37 ID:???
- 短い沈黙が訪れた。みなもは黙ったまま、跳ねるボールの方を眺めた。
だが神楽の目は、みなもの方をしっかりと見つめた。
「先生……。実際に大人になったら、どうなるんですか?
余裕って、できるんですか? それともやっぱり、こんな感じが続くんですか?」
「それは……」みなもは戸惑った。その後に言葉を継げなかった。
今の自分にだって、余裕はない。けれどもそれは、神楽のいう余裕のなさと比べれば、
何といじましく、すれ切ったものであることか。
「大人」としてこの少女に語り聞かせるには、あまりにも恥ずかしいものだった。
自分から見ればまだ子供である神楽でさえ、大人は子供に誇りを見せねばならないものだと
わきまえている。だというのに自分ときたら、大人になることに幻滅を抱かせるような見本にしか
なり得ていないのだ。
だから、みなもは黙るしかない。その視界の中で、ボールが高く弧を描いた。
トラップしたのは榊だ。そのままドリブルで独走してくる。
「とも、止めるぞ」
いつになく本気の口調で呼ぶ暦に、智は目を丸くして訊く。「……どしたの?」
「守るって、神楽に言ったからな……」榊に向かっていく暦。結局、智も引かれるように後を追った。
暦が挑んでくる珍しい状況に少し意外そうな表情を見せながら、榊は身をかわそうとする。
だが暦も追いついてみせる。素早く足をさばき合う二人の、長い髪が翻る。
暦は、チームの中ではかなり榊を手こずらせた方だった。
しかしやはり勝つことはできず、やがて榊はするりと走り抜ける。
もちろん智に止められるはずはなかったし、その先にいたちよと大阪は論外だ。
軽くいなされただけでくるくると回転している大阪を尻目に、榊はボールを易々とゴールに蹴り込む。
「ダメだな……」暦はうつむき加減に首を振って、小さくつぶやきを漏らしていた。
「やっぱ、すげえな」神楽が感嘆する。ライバルを称える瞳は、一点の曇りもなく輝いている。
自分より上かもしれない相手に対してそんな眼ができるのは、若い向上心に溢れているからか。
みなもは思う。自分も、かつては同じ眼をしていただろうと。
「やっぱり、神楽ちゃんがおらんとあかんでぇ……」
まだ目を回しながら、ちよに支えられている大阪が悲鳴をあげていた。
- 464 名前:路 (8) 投稿日:03/05/19 23:41 ID:???
- 神楽が歩み出す。「行きますね」
「もういいの?」
「あいつからボール取れるのは、私しかいませんから」答えるその背中は、誇りに満ちていた。
そして、去り際に言い残す。「部活の方、指導よろしくお願いしますね」
「……わかった!」みなもは声をあげた。この子に対して、今の自分にも言える言葉。
そして、言わなければならない言葉。「インハイ行こうね!!」
――そうだ。私は大人なんだから、子供に戻りたいなんて絶対に思ってはいけない。
私はもう大人で、子供から頼られる立場になっているんだから、それをちゃんと全うしなければいけない。
不安でも、大した存在でなくても、後戻りができないのなら、
この自分で頑張って大人をやっていくしかないではないか?
再びボールを持った榊を、神楽が迎え撃つ。激しい攻防。他の誰にも真似のできない高みで。
一瞬の隙に、神楽がボールを奪った。榊が、かつては漏らしたことのない悔しげな息をつく。
一直線に走り込んで神楽が放ったシュートは、ゴールに深々と突き刺さった。
「私にはできないこと、か」
試合を終えて歓談している神楽と榊を見ながら、暦がつぶやいた。
「何、またマジモードの続き?」智が声をかけ、ふざけた口調で喋る。
「まっ、別にサッカーなんかできなくても、私の目標、ICPOには関係ないしー」
「で? 実際、進路指導では何て言ってんだっけ?」
追求されると、智は、うー、と黙りこくってしまった。
「……まあ、ぼちぼち考えてみるか。私にできることってのを」暦は、言いながら空を見上げる。
頭上を覆っていた雲には切れ目が生じて、明るい光が差し込んできていた。
「晴れてきたなぁ。どうなるかわからないっていうから、傘持ってきたのにな」
智が、早速いつもの調子を取り戻す。
「よみは心配性だなあ。あたしなんか、先行きはいつもいい方にしか賭けないもんねー」
「それで降った時は、人の傘に入れてもらおうってんだろ。ったく」
悪態をつきながらも、暦は微笑みを浮かべた目で智を見つめた。
ちよが笑っている。「私も早く大きくなって、みんなみたいにスポーツできるようになりたいです」
そんな少し子供の友人を、いつものように五人が囲んでいく。
少女たちを包む空はますます曇りを払って、光を満たし始めていた。
- 465 名前:路 (9) 投稿日:03/05/19 23:42 ID:???
- 屋上から見下ろした校舎前の広場には、まだ桜の色が明々と灯っていた。
この桜たちは、みなもが手がけた卒業生たちを見送り、
また、みなものもとにやって来る新入生たちを出迎えもしたのだろう。
それに何だか、一年前にゆかりと飲んだくれた夜のことをも思い出させる。
「あのときの夜桜、綺麗だったよね」と傍らのゆかりに訊いてみても、
「そだっけ……」と眠そうな声で返されるばかりだけれど。
春風が、みなもの髪をかすかに揺らす。風に乗ってくる季節の匂いはみなもにも眠気をもたらし、
大きなあくびを誘い出した。
「余裕だねえ」ゆかりがつぶやく。
「そうねえ」みなもは、少し考えて口を開いた。
「確かに、新しい生徒たちを相手にしてて思ったのよ……ああ、慣れてきたのかなって」
ゆかりが緊張感のない声で答える。「ま、大仕事が終わった後だしね」
「前に木村先生から言われたこと、あんたに話したっけ」みなもはそれを思い出した。
「結構、わかってきたような気もするわぁ」
「木村がねぇ。何か悪いもんでも食ってたとしか思えないけど」そんなことを言うゆかりも、
生徒からもらった花束が枯れないように一応は気をつけているらしい――
もっとも、世話はもっぱら母親任せのようだが。
みなもは、生徒たちが手向けてくれたクラッカーの音を思い出していた。
手探りで必死にやっただけの一年だったけれど、それでも感謝の言葉を与えられたのだから、
合格点はつけてもらえたのだろう。みんな、ちゃんと笑って巣立っていってくれた。
とりわけ、挨拶に来た神楽が心からの笑顔で言った
『先生のおかげで、やれるだけやれました』という言葉は、
みなもにとっても大きな誇りとなってくれていた。
- 466 名前:路 (10) 投稿日:03/05/19 23:43 ID:???
- ふと何気なしにゆかりの方を見たとき、みなもは近くのプランターの中に
牛乳パックが転がっているのを目にとめた。
「いやだ、掃除の人が見落としたのかしら」拾い上げてみると、日付からしてだいぶ前のものだ。
「ああ、うちにいたあの連中かも。時々ここでお昼を食ってたみたいだから」ゆかりが言った。
「……じゃ、あんたが捨てなさい」みなもは、ゆかりにそれを突き出す。
「ちょっと、なんであたしが」抗議の声に、答えて言う。「あたしが捨てちゃいけない気がするから」
少し間があってから、「……あたしは平気だよ。おセンチじゃないから」ゆかりはそう言って
パックを奪い取ると、空になった菓子パンの紙袋に突っ込み、その口を丁寧に巻いて閉じた。
それを見届け、再びフェンスの外に顔を向けながら、みなもは訊いた。
「そういえば、あの子たちの写真、あんたのとこにももう届いた?」
「えーえ。最後の奴も無事に合格ってんで、全員そりゃもう楽しそうなことで」
みなもは、少し感慨深げな息を漏らした。
「あの子たちが大学生かあ。しっかり大人になっていくものねえ」
「ま、大学なんて所詮モラトリアムの延長かもしれんっすよ。本当は行く人間の方が少ないんだしさ」
「あんたが偉そうに言う台詞じゃないわねえ」皮肉を皮肉で諌めながら、
しかし、みなもはふと思いに沈んでつぶやいた。「……モラトリアム、か」
ん? と顔を向けるゆかりの視線を感じながら、みなもは言う。
「大人の自信が持てるまではって、あの時のお見合いは断ったけど……。
ただ、それも結局はモラトリアムを選んだのかな……なんて、考えたりすることもあるのよ」
ゆかりが評する。「なーによ、要はチャンス逃した後悔なんじゃないの?」
みなもはしおれてみせる。「あぁー、ま、それはあるかも。でも……」
でも、そこにも感じている一片の思いはあって、空を見上げながらそれを口にした。
「結局こんなふうにぐだぐだ迷ってる自分に気がつくと、まだまだだなって……。
大人の自信って、なかなか持てないものねえ」
返事らしい返事はない。ゆかりは面倒くさそうに目を閉じ、んんー、と唸って
フェンスに寄りかかったままだ。
だから、みなもは青々と広がる空をじっと見つめ続けるだけだった。
- 467 名前:路 (11) 投稿日:03/05/19 23:43 ID:???
- 「あれ、せんせーい」
下から溌剌とした声が聞こえた。桜の根元に、みなもの新しいクラスの女子生徒たちが見える。
「もうすぐ昼休み終わりですよー。次、体育でしょー?」
「ああ、そうね。行きまーす」みなもは答え、居眠りしているのかもしれないゆかりの肩を軽く揺する。
「谷崎先生も、ほら、行きましょう」
生徒たちが去ってしまってから、やっとゆかりは目を開けた。
「そうですね、行きましょうか」にやにやと笑いながら。「黒沢せ・ん・せ・い」
「何よ……」少し顔を赤くして面食らうみなもに、歩き出しながらゆかりは言った。
「まっ、いいんじゃないの。子供の前でこうしてちゃーんと大人面できてりゃ、大人ってことで」
……ふ、とかすかに笑って、みなもは後に続いた。「あんたにそれができてるのぉ?」
けれど、ごく稀にこういう腑に落ちることを言ってくれるから、こんないい加減な奴でも
親友ということにしていられるのだろう。
校舎の中へ戻る間際、みなもはもう一度だけ振り帰って見た。
この場所。子供の頃と一緒。そして多分これから先も一緒。子供の頃からの親友とも、ずっと、一緒。
それなりに楽しくやっていける毎日は、そう簡単に揺らぎはしないだろう。
けれど、それでいてさえ何だかんだで変わっていくものはあって、
過去は思い出になってしまうし、未来は今と同じでなくなることは避けようもなくて、
それはあの子たちにとっても同じこと。
それは当然のことでもあり、同時にどこか哀しいことでもあるけれど、
それこそ大昔から人が代々繰り返してきた営みであるわけで、
ではどうしてそんな営みを繰り返すのかという思いがふと頭をかすめたりもするけれど、
そんな話は自分の手に余る問題でしかないし、
どうせ、今夜飲んだ後にはすっかり忘れてしまっていることだろう。
「にゃもー、今夜はあんたのおごりね」
「いいけど、借金の1万円分はあんたのおごりね」
チャイムが鳴って、物憂い午後の授業が始まる。
(了)