646 名前:私の歩む道 投稿日:03/07/01 00:16 ID:???
少女、美浜ちよは天才だった。
幼少の頃から人より理解力が優れ、周りからは神童と持てはやされていたが、
自分の意志で高等教育の教科書を購入し戯れにそれを熟読している姿はさすがに両親を驚かせた。
父は娘の特別な才能を見抜き、それを発揮させるように努めた。だから教育委や文部省に働きかけて
娘の飛び級を認めさせ、娘にそのための特別教育を施した。
その才能に加えて努力家でもあるちよは年齢に見合わないほどの高等な知識をみるみるうちに吸収し、
ちよの向上心は彼女に飛び級という普通ならありえない出来事を実現させた。
人より大人願望の強い、悪く言えばおませな女の子は一足早く大人に近づけることを喜んだ。だが――


647 名前:私の歩む道 投稿日:03/07/01 00:16 ID:???
2月の終わりに近づいた頃、暦の上では春でもまだ上着が必要なほどの寒さを残しているある日、
その日の日直だったちよはその仕事を果たすために一人職員室へと赴いた。
ちよは若干暗い表情をしていたのだが、目ざとくそれに気づいた担任の女教師がちよに尋ねた。
「ちよちゃん、どうしたの? 元気ないみたいだけど」
頭がいいだけでなく社交的で人当たりがよく誰にでも優しいちよはクラスだけでなく学校中から親しまれていた。
そんなせいもあってか、教師という立場にも関わらずちゃん付けで呼んでしまっている。
もちろんその女教師も天才を自分のクラスに持ったことはない。だから教師として誰かを特別扱いするまいと
心がけていてもちよのことはどうしても気になってしまうものだ。
「あの、最近卒業式の練習が始まったじゃないですか」
小学校の卒業式の練習は無意味なくらい丹念に行われる。それは女教師にとっても煩わしいことだった。
そんなことを生徒や同僚の前で言えるわけではなかったが。
「……あれが卒業式なんだなって思って」
飛び級して今年を最後に小学生ではなくなってしまうちよは、『卒業』しない。
飛び級のことはちよの希望で他の生徒達には知らされていなかった。
あまり騒動にするわけにもいかないというちよの配慮だった。女教師はちよのそんな聡明さに感心していたのだが……
人生で大事なステップを踏み飛ばしてしまうことがこの聡明な少女には喜ばしくないのかもしれない。
女教師はようやくそのことに思い至った。今まではこの天才の出現を喜んでいただけだったが。


648 名前:私の歩む道 投稿日:03/07/01 00:17 ID:???
その日、ちよは忠吉の散歩のコースを変え、ある高校の前に来ていた。
これからちよが入学することになる高校。この学区内では一番の進学校である。
憂いの表情のちよを迎えたのはこの季節には珍しい曇り空と、装いのない木々、そして生徒たちの騒がしい声だった。

今までは喜びだけだった。普通よりも早く大人に近づけることが嬉しかった。
学校よりもレベルの高い授業は面白かったし、勉強できることが楽しかった。
だが、特別授業のために友達と遊ぶ時間が少なくなり、卒業式の練習をしたことで始めて思い至った。
私は友達を置いてきぼりにしようとしている。みんな大事な人なのに、自分の意志で離れようとしている。
学校にいる事は楽しい。みんなと遊んだり、笑ったりしている今がとても楽しい。
ちよはグラウンドに目をやった。陸上部や野球部が懸命に声を上げて練習している。
何部かはわからないが、ジョギングしている集団がちよの近くを通り過ぎた。
その声や表情はどれもひたむきで強い意志を持っていた。
普通なら段階を経て少しずつここへ近づいていく。少しずつ大人になってゆく。
学校という環境を楽しんでいるだけの自分。軽い気持ちで違う世界へ飛び込もうとしている自分。
私の居場所はここにあるのだろうか?
ただまっすぐに進んできたちよが始めて持った疑問だった。結局答えの出ないままその日の散歩を終えた。


649 名前:私の歩む道 投稿日:03/07/01 00:17 ID:???
3月上旬のある日、小学生にとってはなんでもない普通の日だったが――ちよは学校を欠席した。
この日は高校の入学試験が行われた。これをちよも受けたのだ。普通の生徒と同じ日に、同じ会場で。
それがちよの強い希望だった。さすがに受験する教室を一緒にはできなかったが。
そうすることでせめて気持ちだけでも他の生徒と一緒になりたかった。
疑問に答えが出たわけではないが、テストに手を抜くことはちよの性格が許さなかった。
だから、不安があっても十分に実力を発揮した。

そう、当然のことなのだ。今の状況から離れることに不安があるということは。
ちよだって例外ではない。それに天才とは言ってもまだ9歳の子供だ。
そんな自分の生徒の気持ちに気づいてやれなかったことを女教師は恥じた。
何か力になってやれることはないだろうか? 教師として、人生の先輩として。
一人の生徒を特別扱いするべきではない。だが、その生徒が悩んでいるなら話は別だ。
だから、ちよだけが欠席したその日、彼女は自分のクラスの生徒たちに話を持ちかけた。


650 名前:私の歩む道 投稿日:03/07/01 00:18 ID:???
数日後、高校入試の結果が発表された。ちよは他の生徒と点数を比べられたわけではないが、
その成績は合格に足ると認定され、入学が認められることになった。
こうして日本では始めての事例となる高校への飛び級が実現した。
だが、それによって『もう戻れない』という現実がちよの胸に突き刺さった。
私は本当にこれを望んでいたのだろうか? 大切なものを置き去りにしまでして背伸びしたかったのだろうか?

自分の考えに追い詰められてくると、ちよには周りの全てが自分とは遠いもののように思えた。
心なしかクラスメートが自分を避けているような気さえした。
その日の5時間目の授業が終わったあと、担任の先生がちよを職員室へと呼んだ。
「先生、用事ってなんですか?」
問われた女教師は原稿用紙を手にとりながら言った。
「ちよちゃんに卒業文集に載せる作文を書いてほしいの。2年後、みんなが卒業する年の文集に載せるためにね。
一緒に卒業することはできないけど、気持ちだけでも一緒にいてほしいの」
ちよはそれに『はい』と答えることができなかった。今進学に疑問を抱いている自分が作文を書いてしまうと、
きっとその心境は内容に反映される。そんなものが正しく巣立ちを迎える人達と同じ文集に載る資格があるだろうか?
「今すぐに答えなくてもいいのよ。本当はちよちゃんは書かなくてもいいんだしね。
私が勝手に書かせようとしただけ。……さあ、次の授業よ。行きましょう」
先生に促され、彼女と共にちよは教室へと向かった。教室の前にたどり着いたとき、先生はちよが教室に入るのを止めた。
「ちょっと待っててね」
それだけ言うと彼女は先に教室に入り、少し経ってから扉を開けてちよにこう言った。
「ちよちゃん、どうぞ入っていらっしゃい」


651 名前:私の歩む道 投稿日:03/07/01 00:19 ID:???
教室に入ったちよの視界に入ってきたものは笑顔のクラスメート達と、黒板に大きく書かれた
『お誕生日・合格おめでとう』の文字だった。
「ちよちゃん、おめでとう!」生徒達の声とクラッカーの音が教室に響き渡った。
「ごめんね、ちよちゃん。飛び級のことみんなに言っちゃった」
それは詫びの言葉だったが、女教師は笑顔で言った。女教師の考えた末の行動だった。
ありきたりだが、みんなで暖かく送り出してあげることがこの少女の力になってやれるはずだと信じて。
一方のちよは誕生日のことなど今まで忘れていた。毎年その日が来るのが楽しみだったはずなのに。
そんなことさえ忘れてしまうほど自分が余裕を無くしていたことにちよは気付いた。
「ちよちゃん、これ受け取って」
クラスメートのみちるとゆかが代表してプレゼントと寄せ書きを手渡した。
『少し早いけど卒業おめでとう』『高校に行ってもがんばってね』『ちよちゃんのこと応援するよ』
クラスメートが送ってくれた言葉の数々がちよの心を揺り動かした。
「このパーティーのことちよちゃんに内緒にしたかったからみんな今日はお話できなくて。ゴメンね」
私は何で一人で抱え込んでいたのだろう。みんなはこんなにあたたかいのに。
「みんな……ありがとう」
ちよの両目からは涙が溢れ出していた。
「ちょ、ちょっと、ちよちゃん泣かないでよ」
みちるとゆかが必死にちよをなだめようとするが、一度揺れ動いてしまった感情は簡単に元には戻らなかった。


652 名前:私の歩む道 投稿日:03/07/01 00:19 ID:???
それから泣き止んだちよは笑顔で誕生日パーティーを楽しんだ。そのとき起こったなにもかもが楽しかった。
パーティーが終わった後、ちよは職員室に行き先生と二人きりになった。
「これでわかったでしょ、ちよちゃん。辛いときはみんなに甘えちゃっていいのよ」
自分に教えてくれる者の言葉に、ちよは肯いた。
「ちよちゃんがこれから通う高校ってね、昔私も通ってたの。いい友達がいっぱいいて、とても楽しかった。
 すごくいいところよ。きっとちよちゃんも楽しくなれる。だから心配しないで」
ちよに言い聞かせたその言葉は、自分の母校への誇りが込められていた。
だからちよはそれを素直に聞き入れることができた。そしてちよは確かな決意をもった顔で言った。
「先生、卒業文集の作文を書かせてください」
「……はい、がんばってね、ちよちゃん」
女教師は微笑みながら原稿用紙を手渡した。


653 名前:私の歩む道 投稿日:03/07/01 00:20 ID:???
その年の終業式の日、ちよは教師に作文を提出した。
「先生、いろいろありがとうございました」
そう言いながら向けてくれた心からの笑顔が、女教師には何よりも嬉しかった。本当に教師をやっていてよかったと思う。
「ちよちゃん、がんばってね。ちよちゃんなら大丈夫、きっとうまくやっていけるわ」
もう一度お礼を言って去っていったちよの後ろ姿を見ながら、女教師は考えた。
あの高校、私の母校。かつての同級生のことを思い出す。谷崎ゆかりと黒沢みなも。今あの二人はあの高校で教師を
やっているはずだ。今では共学になったが、ゆかりが教師をやっているくらいだからきっと今もいいところだろう。
あの二人ならちよちゃんにとっていい先生になれるはず。
ちよちゃんのこと、よろしく頼むわね。

ふと、原稿用紙が目に入った。そこにはちよの想いが綴られていた。

――高校に入ることが決まったとき、始めは
これでいいのかなと思っていました。みんな
と別れてしまうことが寂しくて、年上の人ば
かりの学校に行くのが不安でした。でも、み
んなが私を励ましてくれました。だから――

そこで女教師は読むのをやめて、原稿をしまいこんだ。これを読むのはみんなと一緒、卒業のときにしよう。

ちよは帰る前に一度だけ校舎を振り返った。ここにあるものは全てが優しく、全てが暖かかった。
でも、これから行く場所も、きっとそうだよね。
「ちよちゃーん、一緒に行こう!」
「うん!」
呼びかけるクラスメートにプレゼントのリボンをつけた少女は応え、駆け寄った。
今日は日が暮れるまで遊ぼう。一度くらいいいよね。


654 名前:私の歩む道 投稿日:03/07/01 00:22 ID:???
編入手続きが入学式に間に合わず、数日遅れることになったが、ちよにとってはその日が最初の登校となった。
今日は制服を着て高校生としてここへ。ちよの心はかつてここに来たときよりもずっと強かった。
そんなちよを迎えたのは彼女よりも背の高い人々の流れ、もっと背の高い桜の木々――それは文字通り桜色の花を
装っていて誰もが認める桜だった――そしてそれとコントラストをなしているさわやかな青空。
前へと進む確かな歩み、真新しい制服、迷いのない心。ちよは既に立派な高校生だった。
今までは漠然としていた自分の気持ち。文章にすることで整理できたような気がする。

始めは浮かれていただけだった。自分が早足で進めることに。次は不安だった。今の環境を離れることへの、
いくつかの段階を踏み飛ばしてしまうことへの、そして知らない世界へ飛び込むことへの。

                  ――でも、み
んなが私を励ましてくれました。だから私は
年上のみなさんに負けないように立派な高校
生としてがんばっていきたいと思います。同
級生のみんなと別れてしまって、これから辛
いこともあるかもしれないけど、私は後悔し
ません。これが私の選んだ道だから。

ここへと送り出してくれたみんな。ここで一緒になる友達。ここから巣立ったとき出会うであろう人々。
この少女の歩く道のどこかで交わる人達。
そのすべてが祝福していた。この小さな少女を。

―終わり―