- 598 名前:To be or not to be 投稿日:04/01/29 17:04
ID:???
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七月七日の星の伝説。
天帝の怒りを買った恋人達は、天の川によって隔てられ、離ればなれにされてしまった。
互いに対岸から見つめ合う二人。何の手だてもなく、もう触れ合うことさえ出来ない。
彼らは悲しみの涙に暮れる日々を送った。
憐れに思った天帝は、年に一度だけ逢うことを許す。
その日、七夕は二人にとって唯一の逢瀬の時とされている。
悲劇的、感傷的、浪漫的。そんな印象が持たれる説話。
聞く人々を切ない思いに駆られさせるラブストーリー。
私は織り姫と彦星を羨望する。
大河を挟んでも、二人は常に向き合える。
364日逢えないとしても、二人には必ず逢瀬の機会が訪れる。
けれど、私には、私たちには。
それすら許されていないのだ。
- 599 名前:To be or not to be 投稿日:04/01/29 17:04
ID:???
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水滴を纏わりつかせたエンジの傘を片手に、私は今来た夜道を戻っていた。
秋雨によってさらに冷え込んだ夜気は、身体の末端部を手始めに遠慮無く体温を奪って
いく。タイスカートとトレーナーにコートを羽織っただけの軽装では無理もないだろう。
しかし、身体の中心では期待が仄かな火と灯っており、寒さを寒さと感じることはなく、
歩調はさらに速まりさえした。
いけない傾向だ。もっと心を固めないと。季節が冬なら凍り付かせることも出来るのだ
ろうか。コートの中にある方の手を心持ち身体に密着させた。
靴裏と路地のぶつかり合う濡れた音が、規則正しく耳朶を打つ。それは先ほどまで降る
雨によってかき消されていたけれど、雨のあがった今では一際大きく家家の壁に反響して
いる感じがする。何となくざわめきの治まったコンサート会場、そこで厳かに行われる打
楽器の音を連想させた。壮大な楽曲の前奏。
黒く濡れ光るアスファルトは、均等に配置された街灯の光をその身に受けて、まるで暗
闇の川に光の浮き石を生じさせているかのようだ。幻想に足を踏み外さないよう、私は道
の真ん中を歩く。
向こう岸に待つかの人を私は夢想した。いや、本当に待っているのか。突然の訪問に驚
きの表情を見せ、その後気まずさのそれを浮かべないだろうか。
(それはない)
即座に陰性の仮定を打ち消した。私は彼女からのメッセージを受け取った。彼女も私の
メッセージを受け取っただろう。だから、彼女は私を待っている。
- 600 名前:To be or not to be 投稿日:04/01/29 17:05
ID:???
- 雲に覆われ星さえ見えない寒天に、その光景が鮮やかに浮かんだ。
誰もいない、祭りの後の家。玄関に一番近い部屋の、一番近い椅子に座った彼女。テレ
ビもラジオもCDプレイヤーもつけず、蛍光灯が照らす静寂の下で、ぬいぐるみを抱きな
がら、ただじっとチャイムの音を待っている。
ふと白い吐息の密度が上がっているのに気づく。もう一度改めてポケットに入っている
側の腕を力ませた。
落ち着け。とにかく落ち着け。
『本来の』目的を思い出せ。私は何をしにいくんだ? ブローチを取りにいくだけだ。
それだけだ。
(そう、それだけ)
心の中で自分に言い聞かせ、自身を「役」と一体化させる。開演間近の劇に備えて。
目の前にはもう舞台――青い屋根の白い家――が見えていた。
一歩、一歩。単調なリズムはしかし、確実に私ともう一人のアクターを近づけている。
もう、あと、十歩。
……九……八…… ……五……四…… ……一……
――着いた。
着いてしまった。そう思う。
このまま引き返すという選択肢がないわけじゃない。それが無難なのだと理性が訴える。
でも、私はもはや振り返ることすら出来なくなっている。何かしらの力が私の踵を返させ
ない。戯曲を実演するしかない。何のミスもなく。
- 601 名前:To be or not to be 投稿日:04/01/29 17:05
ID:???
- 黒褐色の門扉を前に、私は自分を確認する。
呼吸は整った、はずだ。鼓動も多分、恐らくは正常のはずだ。……すぐ治まる。
舌の根本に残ったクリームを生唾と共に嚥下し、凍えて感覚の乏しくなった指先を四角
いボタンの上に乗せた。そして、そっと押し込む。
劇の開始を告げるベルが舞台内部に響き渡るのを感じ、私は表情を強ばらせ、そして緩
めた。自然体、だぞ、私。
演劇のコンセプトと台詞を脳内でグルリと回し、わずかな時間の上に横たわる想い静寂
の中で共演者を待つ。
ドアの横の模様ガラスから明かりが照り、次いで高い人影がそこを横切った。数瞬後、
カチャリ、と鎖の長さだけドアが開かれる。辺りの光量が増した。
「……どなたでしょうか」
人影の主が尋ねる。落ち着いた声が玄関と門扉の間の夜気を翔んだ。
光の隙間から長い黒髪が覗く。私は惑わされることなく、台本通りの言葉を紡いだ。
「暦だけど、ちょっと忘れ物しちゃってさ、いいかな?」
あ…、と呟く声が聞こえ、ドアが閉じる。
上手いな。心の隅で感心する。今のはまさに突然の来訪に意表をつかれた態度そのものだ。
鍵をシリンダーから外す音の後、玄関扉が広く開かれた。秋夜に溢れる光の中、背の高
いシルエットが浮かぶ。
- 602 名前:To be or not to be 投稿日:04/01/29 17:06
ID:???
- 私は取っ手を回して蝶番を軋ませ、領域に踏み込んだ。近くの、危険な領域。
ツッカケの足音がさらなる近接を示す。わざわざ外に来て出迎えなくてもいいのに。他
の面子に対してはそうするにしても、私に対しては。
「忘れ物なら後で届けたのに……」
声が耳を、香りが鼻孔をくすぐる。やはりこの距離はきつい。せっかく覚えたト書きが
頭から蒸発して夜空に溶けてしまわないだろうか。
「いや、それじゃ悪いし、それなりに気に入ってるもんだからさ」
大丈夫。声は上ずってないし、テンポも速くなってない。
「とりあえず寒いから中へ……」
相手の落ち着いた声調。何の違和感も感じさせない。流石だな。本当に榊は上手い。仮
面を被ることに関しては一日の長以上のものがあるわけだ。これなら私も最後までつつが
なく演じられるだろう。
「悪いな」
寄っかかることも頼りにすることも私はしない。けれど、榊が戯曲を破綻させるという
ようなことが絶対ないという保証、これは心強い。相方のミスにまで気を回す必要がない
からだ。だから、私は私のことだけを注意すればいい。榊のことは大丈夫だ。
だから……榊の握ったドアのノブが、心持ち汗ばんでいたようなのは、多分気のせいだろう。