837 名前:FLYERS 1(2年生4月) 投稿日:02/12/28 04:06 ID:???
「榊ー、また一緒に帰ろうぜー」
「……」
長身の物静かな少女を、小柄でボーイッシュな少女が追っていく。

 私は、こいつと同じクラスになった。
 学年の女子で私と並ぶ、運動神経トップの奴。
いや、正直に認めるなら、私を抜いてトップにいる奴……。
 去年の体育祭で負けた時、私は誓ったんだ。こいつに追いつき、追い越してやる。
おかげで、自分を磨く目的意識がはっきりしたってもんだ。
 私に欠けている体格の利点もきっちり備えてる辺り、むしろ競争心をかき立ててくれる。
寡黙な一匹狼っていう性格上の対照性も、いかにもライバルの定番っぽくて燃えるじゃないか。
 今年は、まさにライバル同士が引き合った感じだな。張り合いのある1年間にしてくれそうだ。
まあ、向こうに覚えられていなかったのはがっかりしたけど、いいさ。
これからいくらでも、勝負する機会が作れるわけだ。そこで私の実力を認めさせればいい。
 もちろん、いい友達にもなりたいと思う。私はこいつに敬意を払っているし、
同じスポーツに賭ける者として互いに高め合うような関係でいたい。
そういうわけで、毎日ちょっと強引にアタックしているわけだ。
――でもこいつ、何だか思ってたのとは少し違うのかもしれない……。

 私は、この人と同じクラスになった。
 学年の女子で私と並ぶ、運動神経トップの人……らしい。人から聞いて初めて知った。
 私は「ライバル」と目されているようだけど、多分、この人の期待には添えないだろう。
私にとってスポーツは「できてしまう」ことでしかない。それに自分を賭けたことなどは一度もない。
それは、この身体が持ってしまっている能力。そう、私の好きではないこの身体が……。
 私から何か喋るとすればそんなつまらない事しか言えず、それは努力しているこの人を傷つけるだろう。
だから私は、無表情に口をつぐんでいよう。これまでの人生の大半をそうしてきたように。
 それでもこの人は、毎日積極的に私に近づいてくる。
私から何かを引き出そうと快活に話しかけ、笑いかけてくる。
 こんなふうに接してくる人は、私には初めてだ。
正直、少し苦手だという思いも抱く。人を満足させられることが言えないのは、いつも苦しいから。
――でもこの人、何だか私は嫌いじゃない……。

838 名前:FLYERS 2(2年生5月・上) 投稿日:02/12/28 04:12 ID:???
 例えば一緒に弁当を食べていて、神楽がふと携帯電話を取り出す。
部活の友人にメールの返信を送った後、思いついて訊いてくる。
「なあ、榊も携帯の番号、教えてくんない?」「…………」「じゃ、アドレスだけでもさ」
「……携帯電話は持ってない」「は? あいつらと連絡とったりしないの?」「そういう必要は別に……」
そして、榊は疑問を口にした。「……メールって、それだけのボタンでどうやって書くんだ?」
 そういう事はまだ、「一匹狼」の枠組みで処理できる範囲内だったらしい。
 しかし、マウンテンバイクを最初オートバイだと思っていたことや、オリンピックで活躍した
選手たちの名前をろくに知らなかったことなどは、神楽にとってはのけぞるほどの驚きであるらしかった。
 結局、知り合って1か月も経つ頃には、神楽は榊が全くのインドア型性格で、
本当にスポーツへの関心など持っていない事を納得せざるを得なくなっていた。
「おまえも、私よりはだいぶ上品だけど、男っぽい言葉遣いするじゃん。
 だから似た所があると思ってたんだけどな」
神楽はそんな事を言った。
「私、小さい頃からスポーツ好きで、外で身体動かして騒いでばっかりいて、
 『男の子みたい』って言われまくったクチだよ。
 なら、私はそういう奴なんだって思ってさ。男みたいに喋り続けようって決めたわけ。
 ……でもまあ、よみなんかもああだしな。別に珍しくはないのかもな」

839 名前:FLYERS 3(2年生5月・下) 投稿日:02/12/28 04:14 ID:???
 榊は登校しながら、その言葉を思い出していた。
本当に、なぜ私はこんな喋り方をするようになったのだっけ。
『男の子みたい』とは言われなかったと思う。言われてきたのは――『大きい』『落ち着いてる』――
 そして、やっぱりあれだ。『カッコいい』。――こんな喋り方のせいかな。
……いや、待てよ。逆か? 私もあの人と同じように、そんな「自分」を選んだのか?
そんな「自分」、好きではないはずなのに……?
 どのみち、これは普通の女の子の喋り方ではない。
 そう、やっぱり私は普通ではないのだ。携帯電話もマウンテンバイクもオリンピックも、
知っているのが多分普通なのだ。知らないから、私は普通の女の子たちのようにお喋りもできない……。
――榊は、またいつものように考え込み始めていた。
そして、それはいつものように自分を否定する方向に向かっていくのだった。
「おっはよー、榊ー」
 突然呼びかける声がして、神楽が駆け寄ってきた。今日も榊の顔を見上げると、並んでついてくる。
 道すがら、神楽は咲いている花の名前を当てようとして見事なほどに間違え続け、
榊を内心ひどく驚かせた。それは榊にとってはあまりにも普通の知識だったから――
――(でも、そうか。お互い様なんだろうな)榊はふと、そう考えた。
 そして、間違いを全く悔やむ風もなく、また楽しそうにマウンテンバイクの話を続ける
神楽を見ていると、考え込む必要なんて何もないのかもしれないと思えてくる。
(そういえば、少なくともこの人のおかげで、私は考え込む時間がだいぶ減っているな……)

「ま、悔しいけど、おまえは努力しないでできちまう天才型なんだな。
 でもライバルだって事には変わりないぜ!
 私が武蔵、おまえが小次郎って感じで、それもカッコいいよな!」
 神楽が笑ってそう言ってくれることは、そういうわけで悪い気持ちではなかった。
そんなイメージに史実的な根拠など何もないだろうとちょっと思ったが、それは言わないでおいた。

840 名前:FLYERS 4(2年生7月・上) 投稿日:02/12/28 04:16 ID:???
「……家に来るのか?」榊は、いつになく驚いた声をあげた。
「友達だったら、家ぐらい行くだろ?」驚いたのは神楽も一緒だった。
しかしそれもまた、榊にとっては普通ではなかった。1年生からの友人達も家に来たいと
言った事はなかったし、自分から呼ぶという発想は榊の頭にそもそも存在しなかった。
「期末テストも近づいてきたし、関東大会の練習も忙しくなるし、
 今度の休みぐらいが1学期最後の機会かなと思って」
「でも、何の用事で……」
 榊の答えに、神楽は呆れたように肩で大きくため息をついた。
「はあー…おまえって本当に変わった奴だな。遊びに行くんだよ! 部屋とか見たいの! イヤか!?」
 イヤかと訊かれて、嫌だとはとても言えなかった。

 愛らしい小物と縫いぐるみに満たされた部屋を見るなり、さっそく神楽は驚嘆の声をあげた。
「これ、本当におまえの部屋か?」と遠慮なく口に出して上がり込み、
ソファに置かれたねここねこの縫いぐるみを目ざとく見つける。
「お、これ好きなのか? かわいいよなあ、このヤロー」
言いながら、たちまちねここねこにチョークスリーパーをかけ始め、榊を焦らせる。
 仕方なく、榊は神楽の隣に腰を下ろして手を差し出し、ねここねこを返させた。
「しっかし意外だよなあ。来た奴みんな驚くだろ?」神楽が言った。
「……今まで、家族以外に人を入れた事はない」榊は答えた。
「最初に来ると言われた時、どうやって部屋中の物を隠そうかと思った。だいぶ迷った。
 でも、君は『部屋を見たい』と言ったんだから……」
 何気ない言葉が榊にはやたらと大きな意味を持ったらしいことに、神楽は少し呆気にとられた。
「……やっぱり、おかしいか? 私がこんな趣味だって事……」
 神楽が答えた。「ああ、おかしいと思うよな。イメージからすると」
 そんなにはっきり言われるとまでは思っていなかった。
勇気を出し、初めて扉の中へ迎え入れた相手に言われたその一言は鋭く心をえぐり、榊は目を伏せた。
(そうだ、やっぱり私は……)
 だが、神楽はこんなふうに言葉を続けた。
「だって、おまえ言わねえんだもん。何で言わないわけ?」
 それは、榊が初めて突き付けられた問いだった。

841 名前:FLYERS 5(2年生7月・中) 投稿日:02/12/28 04:18 ID:???
 榊はしばらく黙り込んだ後に、口を開いた。「別に……言う必要がないから」
「他の奴らにも言ってないのか?」
「……そんなことは言わなくても、付き合ってこられたし……」
その奇妙な言い方に、図らずも自分の対人関係における不安定さを再認識して、榊ははっとした。
 1年生の時から付き合ってきた4人の少女たちは、榊が確信を持って友達と呼べる初めての相手だった。
だが、彼女たちに対してさえ、どこか距離を詰めきれないでいる自分がいる。
そして、その孤独な性向にクールさという仮面をかぶせたまま、
内心ではいつか関係が切られてしまわないかと恐れている自分がいる。
 だから、友人たちと会話を交わしたり一緒に行動したりする時々に、
自分の一つ一つの言動に「ちゃんと付き合いという行為ができていること」を確認して安心するという、
そんなぎこちない自意識から榊は未だに解放されていなかった。
 神楽は榊の言葉に少し考え込んでいたが、やがて言った。
「わりい、何かおまえの考え方よくわかんねえや。私だったら、好きな事はどんどん言うけどなあ。
 それで友達と盛り上がれるし、情報交換もできるじゃん」
「で、でも……やっぱり、おかしいし……。私が人にどう見られているかはわかっているから……。
 こんな身体だもの……」榊は、否定的な口調でつぶやいた。
「こんなに大きくて、声も低くて、目つきも冷たくて……」
「運動神経も抜群で、カッコよくて、か」神楽が肯定的な口調で引き取った。
「そりゃまあ、おかしく思われるのは当たり前だよな。
 けど、言ってわからせればおかしくなくなるわけだろ?
 私だって、この部屋見て最初は驚いたけど、もう慣れちまったし」
 そのシンプルな論理に、榊は何も言い返しようがなかった。
間違いなく、それは正しいからだ。結局、自分はそうすることから逃げてきたに過ぎないからだ。
そしてその象徴が自分の男言葉なのだという事も、今ははっきりと判る。
「まあ、別に誰にでも言やいいってわけじゃないけどさ」神楽は言った。
「おまえ、友達相手にまでビビる方がよっぽどおかしいじゃねーか」
 榊は、ねここねこを抱きながらじっと沈黙していた。

842 名前:FLYERS 6(2年生7月・下) 投稿日:02/12/28 04:20 ID:???
 神楽が、あらためて室内を見回して言った。
「……それにしても色々あるよなあ。あ、そういえば去年の文化祭で、おまえらのクラスって
 縫いぐるみの展覧会やってたっけ。あんとき、実はいくつか持っていってたとか?」
「う、うん……」榊は答えながら、はっとした。そう、受け答えはこの言葉だけで済む。
だが、いま言われたばかりではないか? 自分を出す言葉。必要に応じての言葉ではなく、
自分を知ってもらうための言葉。それは、この人にだったら言っても大丈夫なのだ――。
「あ、あれは……」榊は続けた。「匿名だったけど、実は私が出したアイディアだったんだ」
 神楽は一瞬ぽかんとした顔をしてから、笑った。
「そりゃ、さすがに驚いたな。でも、あれよかったよ。
 そういや、おまえも何かネコみたいな耳つけてやってるの見たけど、結構かわいかったぜ。
 そうか、嫌々やってんのかなと思ってたら喜んでたんだ」神楽の笑顔は、どこまでも素直だった。
 榊はやっぱり恥ずかしかったが、そんな反応を聞かせてもらえるのは楽しかった。
「じゃ、今年もできるといいな。そうだ、さすがにクラス中に言うのは恥ずかしいだろうから、
 私が提案してやろうか? ……ま、忘れてなかったら、さ」
「……うん」その心遣いが嬉しく、榊は友人の顔を見ながら微笑んだ。

 期末テストの結果が出た日、神楽は榊との成績差を思い知って、この方面での勝負は諦めるに至った。
 だがその日の放課後、部活休みの神楽に誘われてついていく形で、
友人たちと一緒に帰る榊の姿があった。
 榊が友人たちと行動を共にする事が増えたのは、この頃からである。

843 名前:FLYERS 7(2年生8月) 投稿日:02/12/28 04:29 ID:???
 榊が髪のブローを終えた時、見学していた神楽は言った。
「よくそんな長いの、毎朝手入れできるよなあ」
「伸ばした事はないのか?」榊が訊いた。
「親父は伸ばさせたがってたけどな。『そんなんじゃ男もできないぞ』とか言って」
 少し沈黙があった。神楽はふと榊から目を背け、落ち着かない素振りで言葉を口にした。
「……おまえは男とか、いたことあるか?」
「いや……」案の定な話題に、榊は顔を赤くして答える。
昨晩、泥酔したみなもが喋った様々な話は、未だに二人の頭から離れないでいたのだ。
 神楽はどこか安心したような顔で、ぎこちなく言った。
「……まあ、何か部活の友達とか、そういうのやってる奴はやってるみたいだけど」
 答えようもなく、榊は沈黙を保った。
 ややあってから、神楽が言った。
「……1回だけ先輩に、合コンみたいなのに連れてかれたことあるんだ。
 けどさ、何かイヤだったんだよ。先輩が、いつもと全然違う喋り方したりするのがさ。
 私、妙に意地になっちまって男言葉で通してたら、
 後で『今日うまくいかなかったのはあんたのせいだ』とか怒られちまった」
 榊は黙って聞きながら、決して偽りの姿を持たない神楽に気後れを感じた。
「でも一番イヤだったのはさ……やたら照明とか気にしてんだよ。少しでも色白に見えるようにって」
 水泳に打ち込んで黒く焼けた神楽の顔を、榊はあらためて見つめた。
「夕べショックだったのはさあ、黒沢先生もやっぱり男の前だと態度が違ってたりすんのかなって。
 ……それとも、私が子供なだけなのかな」
 榊は何も言えなかった。神楽にも話をまとめる術がなかった。二人はじっと黙っていた。

「ちよちゃーん、お空が真っ青で海がきれいやでー」大阪の無邪気な声が聞こえてくる。
 神楽は微かに苦笑し、言った。「私らも行こうぜ!」
 廊下を通り、階上へ抜け、バルコニーからみんなと一緒に外を見ると、
木々の向こうに澄みわたった海と空が広がっていた。
「わあ、今日も絶好の海水浴日和ですねー」「どっか近くでスイカ売ってないのかよー」
 神楽は榊に向き直る。「よし榊、練習相手になってもらうぜ! 来年は関東大会突破したいからな!」
「ああ」榊が快く応じる。

 まだもう少しだけ、子供でいいか。神楽はそう思った。

848 名前:FLYERS 8(2年生9月) 投稿日:02/12/29 00:06 ID:???
 結構、平気なつもりでいた。友人達と過ごした間は。
 だが、インハイや国体に選ばれた同年代の選手たちの活躍を見聞きしたとき、
神楽は突然、激しい焦燥感に襲われた。
 あと1年しかないのだという実感が、急に迫ってきたのだ。

 体育の授業は、体育祭の選手決めに向けての100メートル走だった。
2人ずつ同時に走り、順番も自由という形式だったから、神楽は榊に勝負を申し込んだ。
 ゴールで神楽が聞いたのは、榊側のタイムを計ったかおりんの歓声だった。
捕まって賞賛の言葉を浴びせられている榊に背を向け、神楽は黙って戻っていった。
「んー、このあたしが勝てなかった勝負にあえて挑んだ心意気は評価しよう」智がふざけた声で出迎えた。
「でもやっぱ、あんたは万年榊さんのケツを走る女なんだねー」
 当然、智が期待していたのは神楽のムキになった反応だったろう。
だが神楽は、一瞬智を睨み付けた。
 暦が、素早く智を叱る。「おまえが言うなッ」
「……いいよ。本当の事だし」神楽は言い捨てると、運動場の隅にある水飲み場へ歩いていった。
呆然として見送るみんなのところに、やっと榊が帰ってきた。「……どうした?」
「あ…あんなー」
「神楽、今日は負けたのがちょっと悔しかったみたいでさ」
大阪の機先を制して、暦が無難な言葉を選んだ。

 髪を濡らし、顔を洗って、神楽は蛇口の上の鏡を険しい目で覗き込み、頬をぴしゃりと張った。
背後から榊が近づいてきた。
「暑いなあ」神楽は顔を洗った理由をそう説明した。「で、何だよ」
「体育の時には持ってなかったと思って」榊は、ねここねこがプリントされたハンカチを差し出した。
「ああ……サンキュー。私じゃあ、そんなに気が回らねえよなあ」神楽は受け取って顔を拭いた。
「これだから、負けてもおまえのこと、どうも憎みきれねえんだよな」
それは否定形ではあったが、榊が「憎む」という言葉を聞いた初めての瞬間だった。
「何か今日は、ちょっとマジだったんだ……ま、体育祭、頑張ろうぜ」
脇を抜けながら、神楽は榊と目を合わせず、ハンカチを投げ返してよこした。

 その日、神楽は学食だった。榊は一人で弁当を食べながら、
普段からあんな返し方をする相手だっただろうかと、繰り返し考え込んでいた。

849 名前:FLYERS 9(2年生10月) 投稿日:02/12/29 00:13 ID:???
(さて、そろそろ仕掛けどきかな――)神楽は心の中でつぶやいた。鋭い表情で。

 前方の男4人を抜く事は無理として、スタートからずっと並走してきた私と榊とで5位・6位争いか。
 マラソンの並走状態から勝つ事には、他の競技にはない特別な意味がある。
榊が私についてきていたのか、それとも私が榊についていっていたのか。それが明らかになるのだ。
だから精神的な点で、この勝負には絶対に負けられない。
 榊、今おまえにはだいぶ負けがこんでいる。でもな、最後には必ず勝つ。
スポーツは、私のたった一つの取り柄。そして今までの人生の柱であり、生き甲斐。
賭けてきたものが違うおまえには、勝たなきゃならないはずなんだ。
努力もしてないおまえにはな――悪いけど、その点についてだけはプライドを持たせてもらう!!

 神楽は、近づきつつあるゴールに向けてスパートを始めた。
 榊の足音は、追ってこなかった。

 私は、どうしていつもこの人に勝ってしまうのだろう?
 この人は、私がこの身体の重圧に立ち向かうきっかけを与えてくれた。
なのに私は恩返しをするどころか、この人の存在証明を傷つけていく。
この身体は、あくまでも私を裏切り続けるのか?
――ああ、神楽が離れていく。あえて追うこともないかな。今回は神楽の勝ちでいい。
 でも、それは勝負への裏切りではないのか?
……いや、違う! だって、追っても勝てるかどうかは判らない。いや、勝ちたくもないのだから。
そう、別に……追う必要がないから。私はクールなのだから!

「……榊、一つ訊いていいか」体育祭の余韻が冷めた頃、神楽は言った。「本当に全力で走ってたか?」
「うん……長距離は苦手なんだ」その言い訳は、神楽にだろうか。それとも自分にだろうか。
「…だよな。変なこと言ってゴメン。よーし、私の1勝! これからどんどん逆転してやるからな、榊!」
その信頼が、榊には何よりも痛かった。
 結局、榊は考える事を放棄し、無心で勝負し続けるだけだと決めた。
そして、勝ち負けなんかどうでもいいという顔でい続けるだけだと決めた。

(何て皮肉だろう!? この人が外そうとしてくれた仮面を、 この人のために
 また付け直さなければならないなんて……!)榊は心の中で叫んだ。鈍い無表情で。

850 名前:FLYERS 10(2年生12月) 投稿日:02/12/29 00:20 ID:???
『一人ぼっちなんてやめようか……』
クリスマスの日に友人達と行ったカラオケで、榊は最近借りたCDで知った歌を選んだ。
一般に有名な曲とはいえなかったが、それは何か自分の心情を歌っているかのような気がして、
何度も口ずさんでいたのだった。
 カラオケすら初めてだった榊にとって、みんなの前でそんな歌を歌う事は、
自分の心の大事な部分をさらけ出すようで、かなりの勇気を要する事だった。
だが、榊はあえてそこに踏み込んだのだ――神楽が教えてくれたように。
 結果、みんなは偽りのない拍手で迎えてくれ、上手いとの絶賛までしてくれた。
榊は暖かな解放感と安心感を抱いて席に戻り、友人達との絆が深まったように感じていた。
――しかし、一方で少し残念な思いもあった。(神楽がいたら、どう言ってくれただろう……)
 神楽は、部活のメンバーとの約束があって、ここにはいなかったのだ。
『おまえらはもちろん大事な友達だけど、部活の義理はまた別だからな』
神楽は、榊が知らない形の人間関係をも持っていた。
クラスでこそ智や大阪などとふざけ合う三枚目的な役どころだったが、別の者にとっては
「真面目で有望な後輩」だったり「面倒見のいい先輩」だったりすることが、
時折の行動からうかがえるのだった。
 唯一の友人グループの中で自分を表出する事にさえこうして苦闘している榊には、想像もつかない話だ。
(何かに自分を賭けている者同士の関係とは、どんなものだろうか。
 そして神楽は、そこで私の知らないどんな顔を見せているんだろうか……)

 信じがたく音程をはずした歌声が耳を襲い、考え込むのをやめさせてくれた。

851 名前:FLYERS 11(3年生4月) 投稿日:02/12/29 00:27 ID:???
 神楽は相変わらず裏表のない態度でよく話し、笑い、榊と確実に親しさを深めていた。
 だが、たまに神楽が見せる競技者としての表情には、焦りが次第に色濃くなっているのが明らかだった。
「……今後、神楽とどう付き合っていけばいいかなと、ちょっと思って。
 その…私は友達付き合いに慣れてないから……」
『まず聞くけど、神楽とまた同じクラスになれて嬉しいの、どうなの?』受話器の向こうから暦が問う。
「嬉しい」榊は即答した。
『そうか、じゃあ本気なんだね。うーん、でもねえ、あんまり参考になる事は言えないかも。
 私たちの関係とは違うからね。ともとはもう本当に、ダラダラ続いてるって奴でさ。
 付き合い方がどうこうなんて事さえ、忘れちゃったよ』
「……そういうのも、何かうらやましいな」
『そりゃ、隣の芝生はってやつだよ。もう今さら喋る事なんてくだらねー話しかないし、
 かといって何でも話したい事が話せるかっていうと、例えばあいつ本なんか全然読まないから。
 そういう部分ではあんたの方が貴重だよ』
そんなふうに語りながらも、暦の声に決して悪意はこもっていなかった。
『ま、こないだ神楽から例の『余裕』がどうこうって話された時は、珍しく真面目な顔してやがったな。
 何かに打ち込んでる奴はすごいなって、あの時は私も思ったよ……だから私にしてみりゃ、
 緊張感のある神楽とあんたの関係がうらやましく見える』
「私も、神楽のそういうところが好きだ。でも…辛くもあるんだ。
 余裕ってどういう意味だろうと考えていくと、私への当てつけみたいにも思えて……」
あの時向けられた神楽の背中が、榊の脳裏からは未だに離れない。
 答える暦は、生真面目な声になっていた。
『正直、それはもう神楽の問題だと思う。あんたがどうこうできることじゃない。
 もし、それで離れる関係だとしたら……嫌な言い方だけど、それまでなんだろう』
 と、その声の後ろから窓を叩く音がする。『……あーあ、ともが来ちまったよ』
「ああ、それじゃ……。聞いてくれてありがとう」
『私も相談してくれて嬉しいよ。じゃ、あっちの相手してやるかあ』
 持っていた子機を置くと、榊は静かに目を閉じてソファにもたれかかった。
(離れたくない)ねここねこの縫いぐるみを、ぎゅっと抱き締めながら強く思った。

852 名前:FLYERS 12(3年生7月) 投稿日:02/12/29 00:33 ID:???
 水泳の授業中。ただの自由時間に。
「榊、私と勝負しろ」そこまで切実な口調で言われた事はなかった。
そして返答をためらう榊に構いもせず、神楽は2コース分のスペースを空けるよう大声で要求した。
 二人の宿命を見届けたがらない者はもはやおらず、誰もが進んで場を提供し、観衆になりきった。
特に今回は何よりも、神楽が賭ける最後の夏を占う勝負なのだから――。
 みなもが迷いの色を浮かべつつも黙認しているのを見て、やらねばならないのだと榊は知った。

榊の身体は神楽とほとんど並びながら、水を掻き分け、強くなめらかに進んでいく。
そして、やがてコースの端に近づいてゆく。
(この一回のターンを、このたった一蹴りを、失敗させてしまえば?
 ほんの少し力を抜きさえすれば、神楽は確実に私に勝利するだろう。
 うまくやれば、誰にも判りはしない。
 それで何もかもがうまくいく。神楽は誇りを得るだろう。私たちの関係は無事に保たれるだろう。
 なぜ全力を出すことがある? 努力の全てを賭けている神楽と比べてみろ……
 一体私に、勝ちを目指す何の理由があるというのだ!?)
榊は迷いの一瞬、身体を回転させ、壁に足をつけ、そして――

そして、力強く蹴った。
(いや、ある!!
 私の理由は友情だ。絶対に、親友を裏切ってはならないという事だ。
 たとえその結果が、神楽本人をどれだけ傷つけようとも? どれだけ憎まれようとも?
 ああ、そうだ。どんなに残酷であろうとも、それが私たちの友情の形なのだから――)

 フィニッシュ。瞬間、顔を上げて隣を見る。神楽も顔を上げていた。
 神楽の勝ちか!?「先生!」榊は叫んだ。
 僅かな沈黙の後、みなもは苦しみの表情を押し殺しながら告げた。
「……タッチの差で、榊の勝ち」
 そして、水から出る神楽にいたわりの言葉をかける。「神楽、もしあんたが榊と同じ体格だったら……」
「結果が全てです」神楽は低い声で拒絶し、プールサイドへ去った。
 見守っていた者たちの反応も、今日ばかりはただ静かだった。
 神楽を応援し続けた少女が泣き始めた。神楽は自ら、少女に非力を詫びていた。
 榊は、今ほど自分の身体を憎んだ事はなかった。

853 名前:FLYERS 13(3年生8月) 投稿日:02/12/29 00:49 ID:???
 別荘滞在の最後の朝、榊はラジオ体操が始まるより少し早く海を見に出た。
 海岸を走ってくる人影があった。しばらくの後、神楽は榊のそばに駆け上がってきた。
「おはよう…そうか、私たちより早く走ってたな」
「日課だからな。まあ、やっぱキツいけど、100時間走れば泳ぎのタイムが0.1秒伸びるんだ、とか
 自分に言い聞かせてさ。いや、1000時間だっていい。そのためなら本当に、何も惜しくないんだ…」
 そこまで言い終わった瞬間、神楽の両目から突然、滝のような涙がどっと溢れ出した。
「……なんて言葉をさ…おまえを超えてから聞かせて…尊敬させてやるって……
 ああ、それが一番の支えだったよ…本当はなッ!!」
声を震わせながら、神楽はよろめく。
「…何してんだ、私? インハイ行けてりゃここにはいねえ……。
 遊んで、勉強してみたって…忘れられるわけ、ねえじゃねえかッ!!」
 支えようとした榊の腕に頭を押し付けて、神楽はうめいた。
「榊…何で私は、おまえと友達になんかなっちまったんだ!? おまえのこと知らないままだったら、
 まだ、努力の差だって思えたのに……!」
「神楽……」榊は沈痛な面持ちで訊いた。「私を…憎んでるか?」
「本気で憎んでたら、こんなこと言うかよ!!」神楽は身を離し、榊に背を向けて叫んだ。
「おまえがどんな思いで勝負してくれてたかぐらい、よくわかってるさ!
 畜生…本当に、何で友達になんか……。
 おまえがどれだけいい奴かなんて知らなけりゃ、どこまでだって憎めたのに……!」
 榊は、何とか声をかけようとした。「神楽……」
「でも、今は何も言うなッ!!」神楽が怒鳴った。
「いま何か言われたら、その分おまえの事が嫌いになる……!」
そして神楽は、力の抜けた足で下へ降りていく。「…もう少し、走ってくる」
 榊は一瞬、追いかけようとしかけた。だが、それはするべき事ではなかった。
遠のく背中を見送り、榊は踵を返した。
 ちよがいた。「あ、あの……」
 榊は、ちよの頭に手を置いた。
「ちよちゃん…大人になると、悲しい事も増えるんだ。
 でも、神楽なら大丈夫。すぐにいつもの神楽に戻るさ」
「はい……」ちよはまっすぐに海岸を見つめた。
 その聡明な瞳に、愛する少女がかわいいだけの子供時代を終えつつある事を榊は悟った。

856 名前:FLYERS 14(3年生9月・上) 投稿日:02/12/29 09:48 ID:???
 後輩の練習指導を切り上げて、神楽は一人、西日の差し込む部室に戻った。
 これから帰って勉強だ。一般入試に挑む事に決めたのであれば、それこそ猛勉強しなければ。
 結局、自分の実績とこの高校のスポーツ界での認知度を考え合わせれば、
体育推薦ではそれほどのレベルのところには行けない。
いま適当なところで落ち着いてしまえば、自分はもう負けっ放しになってしまう気がする――
進学についてあまり深く考えてはこなかった神楽だが、水泳において敗れ去ってからは
そんな思いを強く抱くようになり、自分の学力ではかなり厳しいともいえる挑戦に踏み切ったのだった。
 着替えを終えて帰ろうとした時、神楽はふと、誰かがテーブルの隅に広げたまま置き忘れた
ファッション雑誌に気がついた。
ほとんど手に取った事もないそれを何気なく一瞥してみて、紙上に躍る多種多様な化粧品に
いくばくかの興味をひかれ、やがてその前に立ってページをめくってみていた。
自分を彩る様々な道具を眺めている事には意外と楽しいところがあり、
美しいモデル達の姿に憧れのようなものを抱かないでもなかった。
 そして、不意に神楽は気づいた。これは他人事ではないのだと。
毎朝アイラインを塗ったり口紅を引いたりする自分の姿を、うまく想像することはできなかった。
しかしいずれは、そうしなければならないらしい。この身は女の身体であってみれば。
 身体――そう、よく動くこの身体を誇って、自分は男のようであろうとした。
けれどもそれは結局、本当に誇れるほどには動かないものだった。
 だとすれば?
 もう答えが出たのであれば――?
 いつしか神楽は、腰を下ろして見入り始めていた。

857 名前:FLYERS 15(3年生9月・下) 投稿日:02/12/29 09:53 ID:???
 「あら、神楽まだいたの?」
突然入ってきたみなもの声に神楽は慌て、何となく本から身を遠ざけた。
「熱心に指導に来てくれるのはいいけど、勉強は大丈夫なの?
 ……ん、それ今月号かしら? ちょっと見ていい?」
「お、置き忘れですから」そう強調しつつ本を差し出す。
「ふうん……」みなもが軽く目を通す。「ああ、これがやっぱ流行りなのかなあ」
 神楽は、薄くメイクしたみなもの顔をしばらく見つめていた。
そして、訊いた。「……先生は、いつごろ化粧しだしたんですか」
「んー、男と付き合うようになってから……」みなもはページを繰る手を止めた。
「でも、本気で気を使うようになったのは大学の頃……一流の選手にはなれないって判った後かな」
「じゃ、先生も……!?」
「もちろん、今はこの仕事が好きだけどね」言うと、みなもは本を閉じ、神楽の顔をまっすぐ見た。
「やっぱり、真面目すぎる子にはいつか言わなきゃいけないのよね。
 神楽……大人のずるい物言いだと思うなら、聞き流してちょうだい。
 スポーツの世界って厳しいところだから、選ばれなかった人間は、
 どこかでうまく折り合いをつけなきゃいけないの。
 あたしはそれを知るのが遅かったから、傷も深かった。
 だから……今あんたに榊がいたことは、決して悪い事じゃなかったと思うのよ」
 しばし沈黙が流れた。窓の外からは、可能性を信じる年少者たちの初々しい練習の声が聞こえていた。
 やがて、神楽はつぶやいた。「その言葉が判る立場には、なりたくなかったですけどね……」
 みなもは静かに、神楽に向けていた視線を外した。
「だけど、先生。そういうこと抜きで」神楽は言った。「榊と会えたのはやっぱり、よかったですよ」
「そう……」みなもは微笑みを浮かべた。
 それから神楽は、少しだけひねくれた苦笑いをする。
「……でも、やっぱちょっとは。ちょっとは、ムカつきますけどね」
「ねえー、ムカつくよねえ。才能だけでどうにかできちゃう奴ってさあ」みなもも苦笑いして乗った。
「あたしも本当、ロクに努力もしなかったくせに英語の才能だけで結局同じ職場にいる奴を見てると、
 ムカついてムカついてねえ」
 斜陽の中で、教師と教え子はしばらく笑い合った。

 化粧の事は、とりあえず受験が終わってから考えよう。

858 名前:FLYERS 16(3年生10月) 投稿日:02/12/29 09:59 ID:???
小さな少女が言う。
 『ちよちゃんが、負けたのに何で楽しかったって言ったのか、やっとわかったよ。
  確かに最後はああなっちゃったけど、
  でも、おまえの走りが、ちよちゃんの心を救ったんだよな。
  あれがおまえじゃなけりゃ、よくてもせいぜい何人か抜くだけで、
  まあ普通に負けたんだろうな。
  真面目なちよちゃんは責任感じて、苦い思い出になっちまっただろう。
  私だったらできなかった。他の誰にもできなかった。
  ――やっぱり、おまえはすげえよ。
  あの時は私もすっかり、何もかも忘れて心の底からおまえを応援しちまってた……。
  だからさ。その身体、もっと誇りに思っていいんじゃないか』

大きな少女はうつむいたままつぶやく。
 『でも、この身体は君を悲しませた……』

小さな少女は優しく言う。
 『だけど、私たちを出会わせてくれた』

大きな少女は、やがて微笑んだ。
 『……うん……』



小さな少女は、すっかり高くなった黄昏の空を見上げた。
 『ちょっと、寒くなってきたな。
  あれだけ暑かったのが嘘みたいだ……』

あの季節の日々は、もう終わりだ。

859 名前:FLYERS 17(3年生2月・上) 投稿日:02/12/29 10:14 ID:???
 滑り止めで同じ所を受け、しかも座席が前後で隣り合わせるとは全くの偶然だった。
もっとも、神楽にとってはここでも引っかかれば御の字、榊にとっては試験に慣れるため程度という
大きな差はあったのだが。
「二人とも他が全滅で、ここでまた一緒になったりしてな!」
神楽の言葉に、榊はマフラーを首に巻きながら真面目な顔で答える。
「いや……。やっぱり、本命に受かりたいな」
「…冗談だって……」そう言いながらも神楽はしかし、榊のあっさりした否定に何か寂しさを感じた。
 ぞろぞろ帰る他の受験生に混じり、難しかった問題の話などをしながら並んで廊下を歩く。
 中庭に出る玄関の所で、壁に貼られた大学広報にふと神楽の目がとまった。
「榊、ちょっと待って」言ってから、神楽は近づいて広報を見る。
新設した温水プールで冬も練習しているという水泳部の近況が載っていた。
「あ、これいいなあ……」思わずつぶやき、気づく。
(何だかんだいって、やっぱり好きなんだよな――)
「ごめん。行こうか」振り返ると、榊はいなかった。人ごみの中で声が聞こえないまま、
行ってしまったらしい。
 神楽は慌てて玄関を飛び出し、人のあふれる中庭を見渡した。
 こちらに背を向けた形で立っている榊の姿はすぐに判別できた。初詣の時のように。
高い上背、すらりとしたスタイル、長い髪。
 あらためて遠目に見たその姿に、やっぱりこいつはカッコいいな――と思いながら、神楽は歩き出した。
 榊の大きな背中を目指してゆく。既視感を抱いた。思えばこの2年間、何度こうして榊を追っただろう。
その思いは、客観的に名づけるならば、思慕とか憧憬だったのかもしれない。
こいつは、いつも私の先にいて、その後ろ姿が一人で佇んでいて。
少し高い所から世界を見下ろしながら、でもそれが何だか寂しそうでいて。
私は振り向いてもらいたくて、強引に声をかける。
どんなに負けても。いつまでも見上げるままでいても。すぐにまたおまえの名前を呼んでしまっている――
「神楽」いま先に振り向いて呼んだのは、榊の方だった。「どうしたんだ。探したぞ」
榊は安堵の微笑みを浮かべながら、神楽を迎えに歩いてきた。

860 名前:FLYERS 18(3年生2月・下) 投稿日:02/12/29 10:17 ID:???
「いや、ちょっとな」神楽は合流して、榊とまた並ぶ。
「まあ、私はこんな身体だからすぐに見つかるだろうが…」榊は、そんな冗談も言うようになっていた。
「私が君を探すのは少し大変だ。だから――離れるな」
 その言葉は、神楽の胸に突然の切なさを呼び起こした。さっきの寂しさを何倍にもしたような感情。
 神楽は思わずうつむき、言葉を漏らした。「……でも、もうすぐ離れちまうだろ」
「離れないさ」
 神楽は見上げた。榊は笑っていた。神楽の肩を押して、言った。「行こう」
 一緒に歩き始めながら、神楽は何だかひどく気恥ずかしかった。
だから、ちょうど吹いてきた風をつかまえて、わめいてみせた。
「うわ、寒っ! 私もマフラー持ってくりゃよかったなあ。
 あさって本命なのに風邪ひいたらシャレんなんねえよ…」
 不意に、首に温かく柔らかいものが触れた。榊が自分のマフラーを外して巻いてくれたのだ。
「今度、返してくれればいい」
榊は、白く美しい首筋をまっすぐに伸ばして、優しく言った。
 榊の体温に包み込まれながら、神楽はいっそう気恥ずかしい思いがして仕方がなかった。
けれどもそれは本当に温かくて返したくなかったから、神楽はそんな気持ちのまま榊に寄り添い、
ずっと、ずっと、二人で歩き続けた。

861 名前:FLYERS 19(3年生3月・上) 投稿日:02/12/29 10:22 ID:???
 楽しかった一日はあっという間に過ぎた。夜空に輝き始めたイルミネーションは
まさしく魔法のようだったが、それは別離の時を告げる灯火でもあった。
今日が終わればもう、みんなで集まる機会はしばらくないだろう。
 売店に囲まれた休憩所の一隅で、二人は言葉を交わしていた。
「荷物はもう送ってある。マヤーを引き取ったら、すぐ向こうに移るつもりだ」
「そっか……。ま、おまえの頭ならきっと大丈夫さ! 本当、頑張れよ!」
「神楽もな。水泳の練習、すぐに始まるんだろう?」
「ああ。まあ、プロとかにはなれないんだろうけどな……」
榊の顔が少し曇ったように見えたので、神楽はちょっと目を落とした。
しかし、すぐに榊の目を明るい視線で見つめ直し、言った。
「でも、自分がどこまで行けるかは見届けてやるさ。私なりの道を見つけてみせるよ」
 榊は微笑んだ。「……連絡、とり合おうな」
「もちろん」
 そのためもあって、榊もやっと携帯電話を持つようになったのだった。
榊が顔文字を知って多用し始めた時、神楽はやっぱりおかしく思ったものだ。
「榊さーん、神楽さーん」出入口の方から、ちよの呼び声が聞こえてきた。
「みんなで記念写真を撮りますから、外に来てくださーい」
「わかった」返事をすると、神楽は荷物を持って立ち上がった。「写真だってさ、榊」
 そして少し歩いてから振り返った時、神楽は榊が何かに目を奪われて動けないでいるのに気づいた。
その視線の先にあるのは、前回来た時にはなかったグッズだった。
マジカルランドのマスコットである魔法使いネコの、大きな縫いぐるみだ。
 榊は何か煮え切らない様子で、それをじっと見つめている。
 神楽は理解した。この期に及んでまだ、榊は親友たちの前にこれを抱いて現れることを
躊躇しているのだ。
「あ、す、すまない……」未練ありげに榊が歩き始めた時、神楽はその脇をすり抜けて売り場へ向かい、
縫いぐるみをカウンターに差し出した。
 そして、戻りながら榊にそれを投げてよこす。
「私からの餞別だよ。さ、行こうぜ」

862 名前:FLYERS 20(3年生3月・下) 投稿日:02/12/29 10:24 ID:???
 長身の物静かな少女と、小柄でボーイッシュな少女が並んで現れる。
 長身の少女は、容姿に似合わないかわいい縫いぐるみを抱きかかえて恥ずかしげであり、
小柄な少女の方にリードされている様子だった。
 少し強引に引っ張られ。でも、どこか嬉しげな表情で。

「ええー、榊ちゃんがあれ買ったのか!?」
「ああ、縫いぐるみのネコも好きだって事かな」
「はい! 榊さんは、かわいいものが大好きなんですよー」
「けどやっぱ、何かびっくりやなー」

温かい笑顔で迎える親友たちのもとへ、二人は向かっていく。


『榊……これはおまえへの、ちょっとした復讐だ』

『でも、ありがとう。私はいつまでも、これを大事にするよ』

(了)