- 293 名前:その1 投稿日:02/09/05 02:09 ID:???
- 落日の早さが、夏の終わりを物語っていた。
丸くなったマヤーを向かいのソファに置いて、榊は開いた窓からオレンジ色の海を見ていた。
傍らの座敷からは少し前の喧騒の余韻も既に絶えていて、ただ波の音だけが静かに繰り返す。
ふと襖が開き、浴衣を着た神楽がひたひたと入ってきた。
「何だ、マヤー寝たまんまなのか。残って見とく必要なかったじゃん」
「他のみんなは?」いつものつぶやくような声で榊は訊いた。
「ゲームコーナーに寄っちまって」座り込んで団扇を使い始めながら、神楽が答える。
「私はさっぱりだからさ。メシまでここで待つよ。マヤー見とくから、おまえも風呂入ったら?」
「いや、私は後でいい」そして榊は窓に向き直り、静寂が戻った。
しばらく経ったとき、神楽が口を開いた。
「ま、本当はさ…さっきのダベリで少しヘコんでるってのもあって。あの時は明るくしてたけど」
「そうか…」
「一人だけ就職決まってないってのは、やっぱこたえるさ。大阪でさえちゃんとやってんのに。
…まだ二年あるおまえがうらやましいよ」
そう棘を含めてみるが、榊は思慮深い沈黙を保っていた。
「スポーツ続けて食ってくなんてやっぱり、さ。…いい加減、諦めどきかなぁ…」
言って投げやりに天井を仰いだとき、榊の鋭い声が聞こえた。
「…簡単に諦めちゃいけない…」
そのとき神楽の中で何かが頭をもたげ、口をついて言葉を出させた。
「いいよな、何でもうまくいってきた奴は…」
榊が、不意に打たれたような表情で振り向いた。
- 294 名前:その2 投稿日:02/09/05 02:10 ID:???
- 西日の中で陰になった相手の顔を見ながら、神楽は思う。言ってしまった。
ならば、もうこのまま行くまでだ。神楽は自分の中のたがを外すことに決めた。
「…白状するよ。私は高校の時におまえと知り合って、才能の差ってのがよく判ったんだ。
私にはスポーツしかない。だから、それだけは伸ばしたくて努力してきた。
おまえの噂を聞いたときには、自分と似た奴だと思った。本当、勝ちたかったよ。
でも違った。おまえはスポーツにこだわってもいないし、特別に努力もしてない。
それでいて私より上だ。しかも頭だって全然いい。私とはスタートラインから別の人間だよ。
…ぶっちゃけ、思った事もあるよ。友達にならない方がよかった、
遠くからおまえを、ただライバルと見てるだけの方が幸せだったかもしれない、ってね…」
部屋は再び静まり返った。
沈黙が続くうち、神楽は不意に、団扇を使う自分の手を白々しく意識し始めた。
しかし、それは意地で動かし続けなければならないような気がするのだった。
突然、榊の声が耳に入った。
「…私を、そんなふうに見ていたのか…?」
その響きはひどく痛々しく、神楽は答えに詰まった。
だが、次に出た言葉は、それとはまた異質な痛みをたたえていた。
「どうして、私がそんな立派な人間に見える…?」
「榊…?」
- 295 名前:その3 投稿日:02/09/05 02:11 ID:???
- 榊は訥々と語り出した。
「私は小心な人間だ…。他人に心を開く事を、ずっと怖がっていた…ああ、もしかすると、
今言われたようなイメージを保ちたいという、卑怯な気持ちもあったのかもしれないな。
だけどやっぱり、寂しかった。自分はこのまま、ずっと一人なのかと恐れていたよ。
…でも、高校に入ってみんなに会えた事で、やっと私は正直に振舞えるようになったんだ」
神楽は黙って耳を傾けていた。自分にはあまり想像できない悩みだと思いながら。
「それでも、まだ私はどこか距離をつめきれなかった。みんなはそれも認めながら
一歩引いて付き合ってくれたけれど、私はそんな自分に迷いもあった。
…そんな時、大きく踏み込んできてくれたのが神楽さんだった。
教室でも、帰り道でも、よく私に近づいて来て、孤独から引っ張り出してくれた」
「いや、それは…」神楽は驚いて否定した。
「別に何も考えてなくて…。そう、どっちかっていうと私がガサツだっただけで…」
「例えそうだとしても、心に壁を作らず、思いをすぐ口にできる神楽さんに、私は憧れた。
それで私も、もう少し変われたんだと思う」
そして榊は声を落とした。「…だから、今のはすごく悲しい…」
波の音が数度繰り返した。神楽は頭を引っかくと、後悔をにじませて声をあげた。
「ゴメン…!見苦しいよな、私…。
い、今のはさ、そういう思いもあるってだけで、一番汚い部分の話だ。
友達としてのおまえはすげー好きだし、勿論そっちの方がずっと大きいんだし」
団扇は既に投げ出してしまっていた。
「…焦ってたんだ…。実を言うとさ、大学に出入りしてる業者の人が私を何か気に入ってくれて、
良ければ来ないかって言ってくれてるんだ。小さいけど、結構名は通った所だよ。
ただ、行くんならスポーツは諦めなきゃならないからさ…。
それで、おまえに八つ当たりして…。甘ったれてるよな、そんなの」
- 296 名前:その4 投稿日:02/09/05 02:11 ID:???
- 不意に、柔らかい鳴き声があがった。マヤーが目を覚ましたのだ。マヤーは、人間達の葛藤など
知らなげに優雅に起き上がると、榊の懐にすべり込んだ。そして首をじっと窓側に向けた。
「…おまえも夕日が好きか、マヤー?」榊はマヤーを抱いて立つと、窓辺に寄り添った。
そして、神楽に声をかけた。「来ないか。こっちは綺麗だ」
許してくれるのか、という言葉は恥ずかしくて言い出せないまま、神楽は榊のそばに近づいた。
たそがれる砂浜には既に人の姿も無く、はるか遠くから来る波だけが静かに果てていく。
「ああ、綺麗だな…」
そして神楽は、頭一つ高い友人とこうして並ぶ感覚を懐かしく思い出していた。
静かな表情を見上げながら、畏敬と愛情を抱いていたあの頃。
「…あのさ、榊」ややあって、迷った末に神楽は口を開いた。
「やっぱり甘えついでに、もう一つだけ聞いてくれるか?」
「あれ?よみ、何でマヤー抱いてんの?」
「おまえらが対戦してる間に榊が預けに来たんだよ。何か、神楽と一泳ぎしてくるって」
「神楽ちゃん、お風呂あがったばっかやのになぁ。そんなにお湯、熱かったかなぁ?」
「そ、それは違うと思います…」
神楽は砂の上の石を拾い上げた。「こいつを投げて、水に落ちたらスタートだ」
「あの岩まで泳ぐんだな?」榊が潮風に髪をなびかせながら訊く。
「これを、おまえとの最後の勝負にする。決着だ」そう口にしてから、神楽は奇妙に切なく感じた。
「私なりに積み重ねてきた努力が、おまえの天才に勝てるかどうか。
勝てたら、まだあがいてみる。負けたら諦める。どっちでも恨みっこなしだ」
だから手加減は…と言いかけて、やめた。榊がそんな愚かなことをするわけはない。
「…いいんだな、私で」榊がつぶやいた。
「おまえしかいないよ」神楽は答えた。
- 297 名前:その5 投稿日:02/09/05 02:21 ID:???
- 二人は、輝く海の中へ向かう低い突堤を歩いていった。
「すっきりさせたいんだ、自分の気持ちを」
そして神楽は付け加えた。「…おまえへの気持ちも、な」
榊が無言で自分の顔を見るのを感じながら、神楽は言う。
「うまく泳げた時も、行き詰まった時も…嬉しいときも苦しいときも、おまえの事を思い出す。
おまえは私にとって目標なのか、壁なのか。
張り切ってみたり劣等感に悩まされたりで、私はいろいろ大変なんだよ。
で、そうこうしてると、結局おまえに取り付かれてるような気になってますます悔しくなる。
でも、おまえの優しい所とか可愛い所もたくさん知ってるから、恨むこともできやしねえ。
ますます、どうしたらいいのか迷ってくる…。
そんなだからもういい加減、ここらでそれを晴らしちまいたいんだ」
波の打ち寄せる突堤の端で、二人は歩みを止めた。高みには、かすかな星の光が閃き始めていた。
「自分でも、こんな複雑な感情に悩む頭があるとは思ってなかったぜ。
私はバカだから、こうでもしないとこの気持ちを処理できなくってさ。
他にいい方法があればよかったんだけど…」
二人を包む世界を、潮のざわめきが満たす。その響きに隠すように、神楽はそっとつぶやいた。
「…もし、おまえが男だったなら、もっと単純に済んだかもしれないのにな」
それは榊に聞こえただろうか。
しかし神楽は恥じらいを吹き飛ばそうと、水平線めがけて大きく大きく腕を振りかぶっていたので、
その反応を確かめることはなかった。
夕日の中に、石が弧を描く。
(了)