749 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 03:55 ID:CQTxwJMw
『永遠の夏休み』

《1》
 本を読んでいる。
午前中で今週分の配給は受けたから、また来週まで人の来る予定は無い。次のページを
捲る。
ここは昔、小高い丘になっていたらしいが、温暖化にともなった海面上昇のせいでだい
ぶ崩れて浅い崖になっている。潮の濃い匂い。乾いた風、鮮やかな光。冬という季節が
曖昧になった最近でも、やはりこの歳では少し冷える。私はひざ掛け代わりのブランケ
ットを胸元まで引き上げた。

 老眼が強くなって、最近は裸眼で読める。しかし集中力は格段に落ちて、一日に何ペ
ージ読めるか。目が疲れて眉間を指で軽く抑えていると、傍らに一人、影が差した。

750 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 03:56 ID:CQTxwJMw
《2》
「おばあちゃん、ごきげんいかが? 」
「おまえもばあさんだろうが」
 隣に置かれたデッキチェアに腰掛けた同居人の憎まれ口をさらりと返す。お互い幼い頃
からの付き合いだ。とくに青春期は二人で濃密に過ごした。長い青春期だった、といえよ
う。ずっと続くと思っていた。
しかし私はある日その暮らしを打ち切り一人の中年期を送った。時はゆるゆると過ぎ、
思ったとおり肉体は醜く老いて、その代わり貯金が残った。その慎ましい貯蓄に加え、
公職だったことも手伝って、私はこの低人数老人ホーム「豊かの家」にすんなり入るこ
とが出来たのだ。このままここでゆっくり命を終える予定だったのに。

「まさか死に場所も一緒とは思わなかったよ」
 嬉しいくせに。嬉しくなんか、ねーよ。
「あ、その本」
 気づかれたか。
へー、これ、読んでくれてるんだ。うるさい、作者が駄目でも作品は別だ。おやおや、
それはどーもありがと。うるさい、おまえがいうと何かムカつく。

波の音が沈黙のバックミュージックになる。隣の老婆は眼鏡をかけて「SAKAKI」とい
う題の写真集を眺めている。古い神社の連なり。昔の天然暴走バカの姿はそこから見出
せない。しかし私は知っている。思慮深く優しそうに見えるのはその眼鏡のせいだ。こ
いつは今もそんな性格じゃない。

751 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 03:57 ID:CQTxwJMw
《3》
年取ったねえ、お互い。老いと若さの混在するつぶやき。
「歳とるの嫌なの? 」
「ん、いや」
 若くなりたいなら、あれ使いなよ。私の勧めに彼女は首をかしげる。
「薬かあ」ちよは、美浜博士は、すごいもの作ったね。古い幼馴染はそう言って本をぱた
りと閉じる。
「みんな、どうしてるかな」
 波がざわめく。水平線の彼方がうっすらと濃くなっている。それがこの薄っぺらな自然
を本物らしく見せる。潮風が額の毛をはたはた。そこに押さえ込むような咳の音が混じっ
た。
「みんなって? 」
「なんだ、あんたもうボケたのかぁ? 」
 みんなって? 重ねての私の質問に彼女は答えない。私は質問を続けようとする。暇潰
しに、老人は若い頃より贅沢に時間を使う。たった一つの話題に半日を費やすことが出来
る。思い出話ならありがたい。引き出しは山ほどある。今よりも、昔の方が美しい。

「写真さあ、撮ろうか」
 80を過ぎた老人の言葉と思えない言葉に私は驚く。
「やればいいじゃん」
「あんたもやるの」
「私はね、余生をゆっくり過ごしたいだけなの。焦ったり慌てたりはたくさん」
 センセイは、執筆のために色々しなくちゃいけないのかもしれないけどね。ん、もう書
かないよ。どうして? だって、もう本じゃないじゃない。あたしは、ペラペラ捲る本の
ほうが好きなのだー。
「じゃあなんで写真なの」
「あたし、思い出話嫌いだからさー」
 たまにならいいけどね。古い古い幼馴染は澄んだ目で笑った。

752 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 03:59 ID:CQTxwJMw
《4》
「それにあんただって先生でしょ、司書、キョーイン」
「もう、この世に必要の無い職業だけどな」
 ラジオのスイッチを入れる。昔は考えられないくらいくっきりした音。新型のラジオは
流れている情報、技術何もかも違う。後五年後には国営放送を除いて全ての局は閉鎖され
るのだそうな。波間に分解されていく、話題のヒットチャートとやらを耳で眺めた。


「NHKにしてよ」
「何で」
「ニュース聞きたい。若返り基本法の改正について」
「やだよ」私は全然好みでない最近の音楽に身をゆだねつつ応える。
「生臭いのはもういい」
「おーおー、達観してますなあ」
 うるさいバカ。私は、ずれてきたブランケットをまた引き上げる。風が少し強くなって
きた。キルト柄の毛布。今時こんなものを使うのはばかげている。そもそも長時間外に出
ていることがこの歳では命取りだ。大人しく「豊かの家」でテレビでも見ていればいいの
だ。仮想放送も充実して、昔のままの自然を放送するチャンネルもあるのだから。虫もい
ない、もっとさわやかな、自然の香りのする優しい人工の世界で。ああ。

潮風に口が渇く。

「飲み物入れるけど、何がいい? 」
「何でもいいよ」
 じゃ、何入れても文句いうなよ。私はブランケットを羽織って立ち上がる。
我が家に給仕システムは無い。茶を一杯入れるのにも人の手を使う。それが二人のなんと
なくの取り決め。「豊かの家」から殆どの装備を運び出すはめになった施設担当官(だか担
当補佐官)がしきりに首をかしげていた。こんなに便利なのに、と目が言っていた。けれ
ど、お互い生活に必要な機具がぴったり一致したのはおかしかった。

753 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:00 ID:CQTxwJMw
《5》
 草を踏んで、外壁が銀色の半円形の家に入る。未来の家みたいだ、と思う。昔読んだSF
のパロディみたい。これが今では最も安全性の高い家なのだそうだ。もし高波がきても、
ミサイルが落ちてきてもこの家なら大丈夫ですよ。施設担当官(だか担当補佐官)の誇ら
しげな言葉の通り、幾度かの津波はこの家に何の被害も与えなかった。
外では毎日五月の朝のように緑が茂り、カレンダー以外に月日の変わり目を示すものは
無い。それはきっと明日も変らないはず。ずっと、ずっと。

やかんがカタカタいう。湯を注いでティーポットとカップを温め、その間に茶葉を用意す
る。
 シュークリーム食べよう、シュークリーム。振り返れば、やはりブランケットに身を包
んで彼女が立っていた。シュークリーム分とろうよ、疲労回復にさ。今日届いたでしょ? あ
の白い箱がそうか、とりあえず冷蔵室に入れといたよ。じゃあたし取ってくるよ。食べる
でしょ、シュークリーム。
「いいなあ、シュークリーム」
 つられて応えたが、実はそれほど食べたくも無い。味がしない。甘さも感じない。シュ
ー皮のぼそぼそした舌触りが嫌だ。一人でいたときに吸い過ぎた劣悪な煙草のせいだ。

 覚えてない? シュークリーム分、あんたが受験の最中口走った、成分表にも乗ってな
い新たな成分。何だよーうるせーなー。いやいや、しっかりネタにさせてもらいましたよ。
これで短編が一本書けた。
「あんたは変んないね」
 私の意見を、このバカは鼻であしらった。
「なんかさ、それってまるで自分は変ったみたいな言い草じゃない? 」

754 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:02 ID:CQTxwJMw
《6》
「苦いよー。辛いもんばっか食べてたから舌がバカになってるんだよー」
 外に出て啜った紅茶の感想がこれだ。文句いうなっていったろ。ヤレヤレ、脳味噌が恐
竜なみだから味覚を感じないんだよな、あんたは。うるさい、恐竜なみの脳味噌はおまえ
だ。歳相応にもうちょっと落ち着いてみろ。口の周りのクリームをぬぐって、私は言い返
す。結局、シュークリームを、私は二個食べた。文句をいいながらこいつは半分だけ食べ
てコンコンと咳をした。最近よく咳をする。歳をとると身体のどこかが弱くなる。けれど
ただそれだけ、あとは何も変らない。少なくともこいつは何も変らない。

 不自然なくらい空が青い。海も。緑も油絵のような光沢がある、真夏日のように。形だ
けは生き生きとしている世界。
 私がカップの紅茶を手の中で冷めるに任せている間、彼女は苦い苦いといいながらカッ
プの中身を飲み干して「あたしね」と口を開いた。それは珍しく落ち着いた声。あたし、
薬使ったよ、ちよすけの薬。
「え? 」
 私は思わずカップを取り落とす。
 ラジオが一時間に一度流す天気予報を伝えている。午後からはところにより雨が降るで
しょう。
「どうして? 」
「ん、あたしが死んだら、困るでしょう」
「誰が」
 つきつけられた指先を睨みつけた。
「あんたがいなくなったらこっちもようやく落ち着けるよ。危なっかしくて見ていられな
い」
 手にかかった紅茶のしぶきをブランケットで拭き取って私は応える。
 穏やかに、老いた瞳が見ている。

755 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:05 ID:CQTxwJMw
《7》
「あたしはね、自分一人だったら気が狂っちゃうな」
「嘘。じゃなんであの時探してくれなかったんだよ」
 40年前の、あの時。
「だって、また会えると思ってたもの」
 にっこり微笑む旧友。なお魅力あせぬ元気印。
「で、会えたでしょ」
 バカ。うるさい、馬鹿はそっちだ。フン。へーんだ。
「でね、もう息をしない友を見て、あたしは静かに狂っていくの。ほら、今晩何食べる?
とか腐っていく親友を見つめながら」
 誰が親友だ。あ、ごめん、恋人だった。うるさい、この馬鹿!
「その上今まで隠してたつまんないわだかまりまで口にしちゃうの。きゃー、恥かしーっ」
「何だよ、何か隠していたこととかあるのか? 」
 おっしえなーい。
 いたずらっぽい視線。全く年甲斐もない。
 遠くで鳥の鳴き声がした。空は真っ青だ。

756 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:05 ID:CQTxwJMw
《8》
 いつのまにか相手のペースに乗せられていることに気がついて、私は落ちたカップを拾
う。濡れたカップのゴミをまたブランケットでぬぐってラジオの置いてあるテーブルに乗
せた。
「心配しなくても、ヨミはあたしが見取るよ」
 トモは微笑んだまま言葉を続ける。
「年取ったって愛してるんだから」
 干からびた頬が赤らむのがわかる。……バカ。
「だからあんなふうに逃げること無かったのに」
「……時代、変ったよね」

 私はさりげなく話題を変える。クローン保険、男権保護法、同性結婚法、第二自然環境
保護条例、それから美浜博士の薬。
「でも、私はあの子があの戦争に手をかさなかったのが偉いと思う」
「そうだねー」
 眼鏡を外しながら、旧友はこっくりうなずいた。
「若返りの薬は許せないけど、戦争に手を出さなかったのは、偉い」
「大阪も無くなっちゃったしね」
「大阪ね」

 そーいやさー、あいつはいつまでも生きてそーな気がするけど。そんな馬鹿な。でもさ
あ、最後に会った時は、神楽と仲良く暮らしてたよ。あの二人もよく続くな。だって、ど
っかの誰かさんとは違うしねー。自分の老いていく姿を愛する人に見せたくないなんてバ
カなこと考えないもんなー。
 心臓が一瞬、締め付けられる。
「誰がそんなこといったよ!! 」
「わあ、ババアが怒った! 」
 五月蝿! おまえも婆ぁだ!!

757 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:05 ID:CQTxwJMw
《9》
 みんな。
そうか、思い出してきた、高校のときの友達。懐かしい思い出。青春期の第一歩。それか
ら私とこのバカは不本意と本意の混じった長い長い時を過ごした。
そういやさ。

「過去のことは振り返らない。それが面白いものを創りだす秘訣だよ、ヨミ君」
 会えるとしたら、いつか会えるよ。
そんな口ぶりのくせに、懐かしそうに目を閉じる、友。
「でもあたしは、ヨミ様のために、時間を少しだけ逆行させることにしたのです。ああ、
何て深いトモちゃんの愛! 」
ふん、お前は本当に自己中だな、昔、広末くらいなら追いつけるって言ってただけのこ
とはある。違うね、確か、アユぐらい、だよ。
「広末だ! 」
「アユ! 」
 若返ったら、どっちか分かるよ。その言葉に私はカチンとくる。
「……自然の流れに逆らいたくないって言ってたくせに」
だから、死に逆らわないって言ってた。それを聞いて、私は初めて心の底から共感でき
たような気がしていた。生命から美を失ったものは、死ななければならないから。 
「うん。でもね」
 そういった後で毛布を口元に当てる。トモの肩が、カクンカクンと震えた。
「ま、とにかくさ、ヨミもあるでしょ? ああしておけばよかったなって後悔」
「ねーよ」

 湾岸地方には雨が降るでしょう。強めの低気圧が。
 津波があるのだろうか。私の意識は徐々にラジオにひきつけられていく。

758 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:06 ID:CQTxwJMw
《10》
「また津波が来るらしいね。あと少ししたらテーブル片付けないと」
「まだ大丈夫だよ」
 それより、ヨミ、あんた人の話し聞いてた?
「ふん、長生きしたいのは自分のためだろう。安心しなよ、あたしの方が絶対早く逝くか
ら。めっきり身体も弱ってね。雨に濡れたりしたらいちころだよ」
 それにあんた恋しさに狂ったりしないよ。ええー、そんなぁ。そんなじゃない!
 コホコホ、今度は一緒に咳き込んだ。

「ねえ、もう半年だよ」
「そうだな」
「夏だったよね」
「夏だったね」
「風景がまるで変らないね」
 最近の薬はよく効くから。私はその言葉を飲み込んだ。トモの横顔を見て、飲み込んだ。
「不自然だよねぇ」
 あたし、こんな世界は大嫌い。

 私は思わず彼女の顔を見る。こんな柔らかに、けれど激しい嫌悪感を示す彼女を見るの
は初めて。
 いつまでも草木を芽吹かせる仕掛け。現状維持の科学の勝利。輝ける白い塔。
 風の隙間を縫うように。
 歌うような友の声。
 闇を避けるように、天にも届く高き塔は。
「トモ」
「大丈夫、書かないよ。余計なことは」
 当局もうるさいしね。それに、限りなく優しいシステムですよ、これは。
 誰かが誰かを見取る為の。

759 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:06 ID:CQTxwJMw
《11》
「ねえ、ヨミさあ、ここの家の秘密知ってる」
「秘密? 」
「見覚えあると思わない? 」
「知らん」
 よーし、じゃあヒント出してあげる。ここは昔ある資産家の別荘でした。それがヒント
か? 眉間にしわをよせて少し考えてみる。それ、有名な人? そう、とても有名な人で
ーす。わかんないな。ふーん、じゃあ宿題ね。
「建物も何もかも、ずいぶん変っちゃったけど」

 私は波間に視線を泳がせる。海面の上昇は地形をずいぶん変えてしまった。二人で訪れ
た場所は沢山あるけれど、どこかは特定できない。海は、南国に色づけられた嘘臭いエメ
ラルドグリーン。健康に塗られた世界からは何も分からない。天気は上々。本当に雨なん
か降るのだろうか。こんな世の中になっても天気予報は確実とはいえない。いや、この世
の中だからか。幾多の火と化学物質に、何万年の自浄を費やさねばならない今だから。

 ふと不安になる。もし本当にトモがいなくなったら。いや、そんなことは無い。第一こ
いつに見取られるなんてぞっとする。いつもの嫌がらせだ。そうに決まっている。それに
もし一人になっても、たぶん私は生き続ける。40年間、一人でも平気だったのだから。
 彼女はいつのまにか寝息を立てている。眠りながら欠伸を繰り返す。幾度も幾度も。

760 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:07 ID:CQTxwJMw
《12》
 小一時間くらいたった頃、ん、ん、とうめき声が聞こえた。
「はい、はい」
 と明瞭に、丁寧な口調で誰かに答えている。寝ぼけちゃって、可笑しい。身を乗り出し
て尋ねた。「ああ」まだ目を開かない。

 夢でも見てたのか? ようやく開いた目が、ぽかっと空を見ている。ぬるりと角膜が光
っている。ううん、そうじゃない、先生と、行ってきた。大学の頃の? ううん。ゆかり
先生? ううん。黒沢先生? 違う、ヨミの知らない人。何処へ行ってきた? 遠い処。遠い処? ヨミも知らない処。漠々と答えると、ふと顔をこちらに向けて「寝てたみたい
だね、やっぱり」と言った。いつもの目。生き生きした瞳。

「こよみ」
「なに? 」
「好きだよ」
「何を唐突に」
「一つお願い」
「何」
「キスして」
「あんたから暦って呼ばれるの、久しぶり」
「再会してから一度もキスして無いじゃん」
「ああ」
「お婆ちゃんだとキスする気、無くなる? 」
 鳥の囀りの絶えた木々が、さわさわと音立てた。

761 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:07 ID:CQTxwJMw
《13》
この半年、手を繋いだことなら一度だけある。初めて津波が襲ったときだ。荒れ狂う波の
音を微かに聞きながらそっと手を繋いだ。かさかさの手のひらが汗ばんでいた。
「暦」
 私は膝掛けをのけて、ゆっくり立ち上がる。乾いた唇を舐める。近寄るとトモの手がゆ
っくりと上がる。傍らに立てば、そのしおれた細い細い腕が私の頭を包み込んだ。そのま
ま触れるようなキス。抱きかかえる腕に、ぐ、と力が加わった。唇を割ってトモの舌が貪
る。舌に広がるブツブツした味蕾は他人の舌のブツブツと絡み合う。
 赤いナメクジの交尾。

「やっぱり、よみ、煙草臭ぁい」
 夢中で貪る私の唇をゆっくり引き剥がして、腐れ縁が言った。
「嘘、最近吸ってないよ」
「でもするんだもん」
「嫌か」
「ううん、微かに、こよみの匂いがする」

 舌が、私の唇をなぞる。くすぐったいような震えがぞぞと背中を走る。我知らず舌を突
き出してその鋭敏な触手を捕らえようとする。空中で舌と舌がダンスした。
「トモの身体、熱い」
「例の薬のせいだよ。全身の細胞が活性化して、熱が出るんだって」
 私のごつごつした指が、彼女のぱさぱさした髪を撫でて、再び深いキスをした。
「うっ」
 顔をそむけ、トモがごほごほと咳き込む。大丈夫か。う〜ん、やっぱり、駄目、みたい。
久しぶりに、激しいキスだったから。

762 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:07 ID:CQTxwJMw
《14》
 私が身体を起こすと、トモは口を毛布で覆う。少し苦しそうで心配になる。
「でも、あんたがあたしの、ために熱い熱い、お茶を入れてくれるんなら」
 よくなるかもしんない。 
胸を抑えながら幼馴染は言った。
「分かった、熱いやつな」
 うん。ひっく。あれ、しゃっくり始まっちゃたよ。よみ。覚えてる? ひっく。みぞお
ちは殴んないでね、っく。ははは。ひっく。
 何だかとても明るい声だったから、私もつられて笑ってしまった。ははは。
 やっぱりまだ、大丈夫だ。
 少しふらふらしながら家に入ろうとする。足が地に付かない。ふわふわしている。時間
が一度に縮まったよう。振り返ると、トモと目が合った。何か言っている。声は聞こえな
い。
「何? 」
 尋ねると、O、E、N、E、の形に唇が動いた。
 ゆっくりゆっくり、O、E、N、E、の形に。
「わかったー、オセンベ欲しいんだな」
 問い掛けると、トモは複雑な笑いをして、それからはっきり笑顔になってうなづいた。

763 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:08 ID:CQTxwJMw
《15》
 やかんを火にかけて、私は激しく落ち込んだ。
この年老いた身体で何をしようとしていたんだろう。私は構わない。トモがどんなに老
いさらばえようと、愛することが出来る。でも、トモはどうなんだろう。老いた私の身
体を好きになれるとは思えない。私は醜い。乳房は萎れ、腹回りには肉のひだが出来て
いる。薬を使っても、また老いはやってくる。どうせ醜く死ぬのなら、このまま死んで
しまいたい。

 こんなふうに思うのが嫌だったから、断ち切った繋がりなのにどうしてまた一緒に。そ
もそも誰と一緒に暮らすかは抽選だから、偶然とすればすごい偶然だ。あいつもそう言っ
てたっけ。

「いやあ、ヨミ君、久しぶり。にしてもすごい偶然だねえ。約半世紀前に分かれた二人が
こんな形で一緒になるなんて。狙ったとしか思えないね、わははは。宝くじで一等当てる
よりも難しいらしいよ」
 やっぱり赤い糸で結ばれてるんだよ。

「何が赤い糸だ! 」
 私は何故か腹を立てている。自分でも怒りの原因がわからない。やかんがカタカタ音を
立てている。私は一旦火を止めて、用意し忘れていた茶葉と煎餅を探す。にしても何故煎
餅なのだろう。いらいらしながらそんな疑問がふと頭をもたげる。オ、セ、ン、ベ、お、
せ、ん、べ。口の中でO、E、N、Eと繰り返してみる。別の言葉なのかもしれない。ふと、
唇がOENEの形を作る一つの言葉がふと思い起こされる。
「ご、…ん、ね? 」 

そんな馬鹿な。
 彼女から謝られる理由は一つも無い。

764 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:08 ID:CQTxwJMw
《16》
 私は
 玩具の基地みたいな家を出る。
 お茶はいったよと呼びかける。
 強まってきた風が頬を撫ぜる。
 私の時が少しずれる。
 ずれたブランケットはたはた。
 倒れたテーブル、断末魔の跡。
つつ、手からお盆が滑り落ち。
 私の時が少しずれる。
 青空の下、草が風の歌を唄う。
 草踏む私の靴唄う、さくさく。
 嗚呼まるで死んでるみたいに、眠る智の元まで。

 過去と現在が少しずれる。

 なんだまた寝ているのかお前は。
 涎なんかたらして恥かしいな。
 みんなに見られたらどうする。

「あ、この歌、懐かしい、聞いてるか、智」
 壊れた、ラジオの音に耳をすませた。

765 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:08 ID:CQTxwJMw
《17》
一緒に歌ったの、覚えてる? 今でも歌えるよ。
Raspberry heaven〜♪ 
 な、昔より上手くなっただろ。
 そばにおいで。ね。
 仕方ないな、目が覚めるまで抱いていてやるから。
 うんしょ、狭いなこの椅子。バカにするな、ちゃんとダイエットするからな。
 全く、汚いな。涙と鼻水と涎が一緒に出てるよ。ホラ、きれいにきれいに。後で一緒に、
お風呂入ろうな。
 お互い皺だらけだけどな。ははは。
 
 私さ、本当いうと、あんたが老いぼれていくの、見たくなかった。だって、なんか、気
持ち悪いじゃん。皺できたり肉たるんだりさ。男と女もアレだけどさ。でもあっちは自然
現象だし。とにかく、いつまでも若いままのつもりだった。でもさ、私も老いぼれていく
んだよね。だからもうそのまま死んじゃうつもりだった。でも、いーや。残された人生、
一緒に楽しく過ごそう! お前のよぼよぼ写真、とってやるよ。

 それにしてもみんな遅いなあ。早く帰ってこないと、嵐がきちゃうよ。
でも、ここは。ちよちゃんの別荘はいいね。何もかも変っちゃったけど。
いつまでもこうしていたい。

 分かってるんだ、智ぉ、あんたずっと待ってたんでしょ。目を覚ましたら言ってやるか
らね。40年越しのストーカーめ! もう気づいたんだから。でなかったらこんな都合のい
いことありっこないでしょ。ふふふ。
でも、かおりんもすごいよなあ。この写真集きれいだもんな。あの、最後に写ってるの、
榊だろ。年取っても変んないな、あいつは。いや、私たちも変らないぞ、智。いつまで
も一緒だからな。薬なんかなくても。

766 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:09 ID:CQTxwJMw
《18》
 智、そろそろおきなわー。
あたし一人じゃ、後片付けできないから。
嵐になるんだぞー。津波がくるぞー。
 あっそー。知らないぞー、私身体ヨイヨイだからな。
 濡れたりしたらいちころだからな。
 このままだと私死んじゃうぞー。
 風邪ひいて、大変なことになっちゃうぞー。
 ごめんねなんて謝んなくていいから。
 ずっと一緒だろ? 謝る必要ないじゃん。
 ……。
 ふふ、智、温かい。
 でも
わたしのめがねかえせ。

767 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/12/06(土) 04:09 ID:CQTxwJMw
《19》
 智の手から眼鏡を取り戻して水平線を見る。
なんだか世界がぼやけて見えて、頭がくらくらした。老眼鏡みたい。
まだみんな帰ってくる気配がない。
でも、もうすぐ帰ってくるだろう。
そうだ。その前に聞いておかなくちゃ。誰かに聞かれたらハズかしいから。
夏休み中に聞いておかないと。秋になったら間に合わないから。
聞き忘れて後悔したくない。
 辺りを見回した。誰もいない。緑の他には、何もない。
 照れ隠しに咳払いした。
「ところでさ、智。一つ聞きたいんだけど」
 私は愛しい人の顔にキスしながら尋ねる。
「おまえ、大学、何処に行くんだ? 」

ずっとずっと夏休みが続いたらいいのに。
いつまでも夏休みが、続いたらいいのに。
海の彼方がラズベリー色に染まっていく。
ラジオが、あの歌を繰り返しているから。
瞳閉じれば、楽園に向かう小舟が揺れる。
私の時がまた少しずれる。

嵐が、近づいていた。