676 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:08 ID:cMcNx026
旧校舎の思い出

 1999年7月。
 一学期が終わった。
 その日は、終業式と簡単なホームルームのみの日程だったので、正午前には
放課となったのである。
 水原暦にとって、高校生になって初めての夏休みが、始まろうとしていた。
「おーい、よみー」
 鞄を左手にささげ持ち、額ににじむ汗を手の甲でぬぐいながら廊下を歩く暦
の後ろから、一人の女子高生の呼ぶ声が聞こえてきた。
 ほどなくして、声の主がぱたぱたと足音を立てながら彼女に追いついた。
「いっしょ帰ろうぜー」
 暦の肩に手を回す。走って追いついてきた彼女の勢いに押され、暦の上体が
よろめいた。
「……おまえな」
「今日はちょっとしたニュースがあるのだよ」
 暦の不機嫌な表情にも頓着せず、その生徒は語りつづけた。
 彼女の名前は、瀧野智。水原暦とは、小学生の頃からの同級生だ。高校生に
なっても、そのかしましさは子供の頃のそれと全く変わらない。いや、むしろ
年を追うごとに彼女のエネルギーは強まっているようにも感じられる。
――もっと大人になれねーのか。
 暦は、いつも幼女のごとくはしゃぎまわる彼女のありさまを見るたび、そう
思うのであった。つい先頃も、それとなく智の振るまいについて苦言を呈した
ことがあったが、一笑のもとに伏され、まったく改める気配は見られなかった
のである。
「旧校舎が取り壊されるらしいぜ」
「へー」
 少しく興奮気味の智に、暦はきわめて淡白な態度で相づちをうった。
 照りつける陽射し、高い気温、そこかしこで鳴く蝉の声。おまけに、道路を
走る車がエンジン音と排気で暑さに煽りをかけている。     (1/13)

677 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:09 ID:cMcNx026
 智と暦の間で『旧校舎』といえば、それは彼女らの出た中学校の旧校舎をさ
す。なんでも昭和のはじめ頃に建てられたとかいう木造のボロ校舎で、今の校
舎が建てられてからは使われなくなった。日頃は立ち入り禁止になっていて、
むしろなぜ今まで取り壊されずに放置されてきたのかが不思議であった。

 とはいえ、立ち入り禁止といわれれば立ち入ってみたくなるのが、好奇心旺
盛な中学生の常。ましてや、面白そうなことがあればすぐに首をつっこみたが
る瀧野智の性質からして、その旧校舎に彼女が忍び込もうと企んだのは必然の
帰結であるといっていい。
 さらに、当時、生徒たちの間では、旧校舎に関してまことしやかな噂が囁か
れていたのである。その内容は、午前零時に旧校舎の三階の廊下を三人で走る
と何か不思議なことがおきるというもの。
 智と暦は、もう一人の同級生とともに、噂の真偽を確かめるべく夜の旧校舎
に忍び込んだのであるが、途中で怖くなった同級生が逃げ出してしまい、結局
実験は失敗に終わったのである。
 もっとも、ほかに実験を試みた生徒は多くあったが、不思議なことなどそう
そう起こるわけもなく、次第にかの噂は忘れ去られていった。
 
 これが、旧校舎にまつわる彼女たちの思い出であった。
 その旧校舎が、とうとう取り壊されることになるという。智のいう『ちょっ
としたニュース』とは、その旨の話であった。
 暦は、一抹の感慨を感じつつ、智のいつもの馬鹿話の一環としてそれに応じ
た。卒業した中学校の、しかも在学時から既に使われていなかった建物が取り
壊されるからといって、今の自分になんらかの影響を及ぼすことはないし、ま
た、わざわざ見に行こうと思うほどかの建物に愛着を感じていたわけでもなかっ
たからである。
 暦にとっては、それよりも、目の前にある猛暑の脅威、そして自らの夏休み
に立ちふさがる宿題の圧力のほうが、はるかに重大な問題であった。 (2/13)

678 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:09 ID:cMcNx026
 そして、その夜。
 暦は、自室にて、深夜ラジオを聞きつつ夏休みの宿題に取り組んでいた。や
るべきことを早めに終わらせ、しかる後に自分の好きなことを心置きなくやる。
それが、暦の長年のポリシーであった。
 好きなことをまっ先にやり、結局やるべきことが終わらずに人の力に頼らざ
るをえなくなるという智の刹那的なパターンを目にするにつけ、暦は、自分の
ポリシーは正しいのだという確信を強めていくのである。どうせこの夏休みも、
智は、面倒くさいことは後回しにして、最後に泣きを見ることになるだろう。

「○○銀行××支店において、銀行強盗が起きました。犯人は目だし帽を被り、
黒の上衣と黒のズボンを身につけ、刃物を銀行員に突きつけて、現金約五百万
円を強取し――」
 定時のニュースが鬱陶しい。暦は、自分の好きな番組の始まるのを心待ちに
しつつ、紙にシャープペンシルを走らせた。サクサクという小気味よい音とと
もに、宿題は回答で埋められていく。
 ラジオが明日の天気を予報し、ようやく次の番組が始まらんとする時間になっ
た頃――机の右にあるガラス窓に人影が映った。
 人影は、こんこんと軽く窓を叩く。
 鍵が開いているのがわかると、その人影はためらいもなくがらりと窓を引き
開けた。蛍光灯の光に映し出されたその人影は、瀧野智。
「へいへい、お邪魔するよー。いや、邪魔ではないはず! 邪魔なものかー!」
 彼女は、わけのわからない口上を述べながら、靴を無造作に庭に脱ぎ捨て、
窓からひらりと室内に入り込んだ。 
 呆れ顔で見守る暦を尻目に、智はずかずかと部屋を徘徊し、暦のベッドにあ
がりこんだ。シーツの上であぐらをかき、おもむろに暦に目を向ける。そして
机の上のノート類を目にして一言、
「何それ?」
「宿題だよ」
「ええーっ! まだ夏休み始まったばっかなのに宿題ー!?」
 憮然とした暦の答えに対し、智は大げさとも言えるほど大きな悲鳴をあげて
応じた。                           (3/13)

679 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:09 ID:cMcNx026
「ヤバイ、よみヤバイ」
 あたかも怯えるかのごとく、智はベッドの上で後ずさった。
 後ずさるあまりベッドからその体がはみだし、したたかに床に尻餅をついた。
堅い音が縁の下に響く。智は、痛みのあまり脚をベッドの上に残したまま床に
寝転がり、うめき声をあげた。続いて、ベッドを脚でばたばたと叩きつける。
「なんだこのベッドはー! 人を落とすとは無礼にもほどがある!」
「おまえなあ……」
 呆れかえった顔で暦が智に呼びかける。
「やるべきことは、先にやる。これは基本だ」
 暦は、自分のポリシーを口にした。智にもこれは見習ってほしい。また休み
終了間際になって智の大騒ぎにつき合わされるのはご免である。
「だからってこんな時期から宿題始めることないだろ?」
 尻をさすりながら、智がふらふらと起き上がった。暦のポリシーになど、全
く興味がないようすである。
「それより、いこうぜ!」
 今だ痛む尻を片方の手でおさえつつ、智は暦にもちかけた。
「どこにだよ」
 この後自分のお気に入りのラジオ番組が始まるのを待っていた暦としては、
突然そんなことを言われると気が気でない。
 そんな暦の思いになど意に介する様子もなく、智は誇らしげに答えた。
「旧校舎!」
「はぁ?」
 智いわく、取り壊される前にかの建物を記憶に刻み込んでおくのは、当中学
校を卒業した者の義務であるとのこと。
「なんで、そうなるんだよ。そもそもどうして夜中に行かなきゃならないんだよ」
 『行きたくない』オーラを全身からほとばしらせながら、暦は智に問うた。
「だって、昼間は先生とか後輩たちがいるじゃーん? 旧校舎に忍び込むには
真夜中の人のいない時間帯のほうが適しているのだよ」
「忍び込む、のかよ……」
「外から眺めるだけでは、記憶に刻み込んでるとはいえましぇーん。それとも、
よみはあの建物に入るのがこわいのかなー?」
「馬鹿言え!」                        (4/13)

680 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:10 ID:cMcNx026
 かくして、二人は、母校の旧校舎に真夜中に忍び込むこととなった。
 暦は、出発前、智に気づかれぬよう、テープをラジカセにセットし、お気に
入りのラジオ番組を録音すべく録音のボタンを押しておいた。帰ってきてから
ゆっくりと聞くつもりである。

 中学校への道すがら、コンビニに寄っておにぎりを購入した。
 彼女たちが中学校にたどりついた頃には、時計は11時30分をまわっていた。
「ったく、こんな夜中に……」
 ぶつぶつと呟きながら、暦はおにぎりをほおばった。口の中で辛子明太子の
味が広がる。現在使われている校舎の昇降口の前にあるゴミ箱に、二人はそれ
ぞれが食べたおにぎりの包みを投げ入れた。
 中天に浮かぶ満月が夜のグラウンドを照らしている。
「走ってみないか?」
 突然、智が暦にもちかけた。自分たちも少し前まではこのグラウンドを走っ
ていたことを思い出したのかもしれない。
 暦は頷いた。
 陸上部が石灰でひいた100m走コースのスタート地点に、二人は立った。
「位置についてー……」
 合図をかけながら、智が白線に手をかけてしゃがみこんだ。暦も倣う。
「よーい、ドン!」
 月光の中、グラウンドが砂埃をあげた。二つの足音が、夜の幾分冷えた空気
にサクサクとこだまする。二つの人影が月明かりに並び、やがてその片方が前
に出て、その差は次第にひらいていった。
 先にゴールの白線を踏んだのは、暦だった。少し遅れて、智が追いつく。
「私の勝ちだな」
 眼鏡をはずし、顔に滲んだ汗をぬぐいつつ、暦は誇らしげに言った。
「はぁ? 別に勝負だとか言ってないし、私本気で走るつもりなかったし」
 負け惜しみを言う智は、肩で息をし、上体をおりまげて膝に両手をあてている。
 本気で走ったらしい。                   (5/13)

681 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:10 ID:cMcNx026
 デモンストレーションを終えた二人は、いよいよ旧校舎に忍び込むことになっ
た。旧校舎の入り口にはロープが張られているが、難なく乗り越えることがで
きる。二人は、土足で木造の旧校舎に入り込んだ。
 足を進めるたび、きいきいと床の木がきしむ。
 古い木材のにおいが、校舎全体にたちこめている。なぜかそのにおいは、二
人の心を和ますものだった。
 無論この建物に現在電気は通っておらず、電灯は点かないので、二人は智の
持ってきた懐中電灯で周りを照らしながら旧校舎内を散策している。もっとも、
今夜は月が明るいので、電灯の光がなくとも、廊下の窓からさしこむ月光によっ
てある程度辺りの様子を見ることはできた。
「うわ、ゴキブリだ!」
 床をかさかさと這い回る小動物に、暦は驚きの声をあげた。
「そりゃ古い建物だもん、ゴキくらいいるさー」
 智は全く頓着しない。
 きしむ階段を一段一段踏みしめて、二人は二階にのぼった。
「そういえばさー、13階段をのぼるとよくないことがあるっていうよねー」
 智が、懐中電灯で前を照らしながらなんとなしに言う。
「大丈夫、15段だった」
「……数えてたのかよ」
 真剣な表情で階段の数を報告する暦に、智は笑って言った。
 二階もくまなく回る。何の変哲もない普通の古びた教室ばかりが、月の光に
照らされて佇んでいた。中には、黒板にチョークで「山田貞夫卒業記念 1999
年3月」などと落書きがされている教室もある。
「はは、山田のやつ、卒業記念にこんなもん書いてやんの」
 智は笑いながら黒板を懐中電灯で照らす。
「私らもなんか記念に書いていこうぜ」
 智は、黒板の下に転がっているちびたチョークを拾い、「山田」の部分に矢
印をあて、「バカ」と大書した。二人、暗い教室の中で大笑い。
「さて、次行くか」
 ひとしきり笑った後、二人はおもむろに教室を後にし、三階に向かった。(6/13)

682 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:10 ID:cMcNx026
 一段目の階段に足をかけた時、不意に校舎内に電子音が鳴り響いた。
「うわぁっ」
 暦が慌てて階段を駆け降りようとする。
「メールだよ。大阪からだ」
「おどかすなよ……」
 智が笑って懐から携帯電話を取り出した。暦はさっきから冷や汗をかきどお
しだ。気を取りなおし、二人は再び階段をのぼりはじめた。そして二人が三階
の床を踏んだとき、智が突如叫んだ。
「13段だ!」
「床は階段の数に含まない。12段だ」
「……なんだよ」
 暦が、智の数え間違いを冷静に指摘した。智はおもしろくなさそうな顔をする。

「三階にも誰か記念板書してないかなー」
 智はずらりと並ぶ教室をひとつひとつ照らしていった。
 一つ目の教室は、何の変哲もない部屋だった。
 二つ目の教室には、誰のしわざなのやら、黒板の前に教室じゅうの机がピラ
ミッド状に積み重ねられていた。
 三つ目の教室のすみには、大きな段ボール箱が置かれていた。何が入ってい
るのか二人が蓋を開けてみると、中からはHな雑誌がざっくざく。どうやら、
男子学生たちの憩いの場として使用されているらしい。辺りを見回してみると、
ご丁寧にもロッカーの上にティッシュ箱が三、四個備え付けられていた。
「イヤラシイな。よみ、一、二冊もらっていくか?」
「いらねーよそんなもん」
 冗談を言い合いながら、二人は教室を出た。
 そうこうしているうちに、最も奥の教室にたどりついたのである。
「ここが最後の教室だ」
 智は、そう言いながらがらりと木戸を引き、教室の中を照らした。
 橙色のライトの中に、そこにあるべからざる者の姿が映し出された。
 智は思わず息を呑み、懐中電灯を取り落とした。
 ごとん、と重い音がして、床に落ちた懐灯の光はあらぬ方を向く。 (7/13)

683 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:11 ID:cMcNx026
「なんだよ、全く」
 暦は、智が自分を驚かそうとしてわざと何かよからぬものを見てしまったふ
りをしているのだと思った。
 懐中電灯を拾いあげ、自ら教室内を照らす。

 窓際に、人影があった。
 黒い上着に、黒いズボン。その人影の佇む脇にある机の上には、彼のものと
思われる黒の目だし帽が脱ぎ捨てられている。そして、その横の床には、中く
らいの大きさのボストンバッグが無造作に置かれていて、中から数え切れぬほ
どの紙幣がのぞいていた。
「――!」
 暦は、とっさに10時55分にラジオで流されたニュースの内容を思い出した。
「ぎ、銀行強盗……?」
 引きつる口から、思わず言葉が漏れる。
「ほーう」
 人影が、立ち上がった。180センチはあろうかと思われる長身だ。
「よく知ってるな、お嬢さん」
 男は、にやりにやりと笑いながら、語りかけてきた。
「しかし――誰かに言いつけられると厄介だな」
 そう言うと、男は、懐から白い刃物を取り出し、猛然とこちらに向かって走っ
てきた。刃が懐中電灯の光を弾く。
「やばい!」
 暦と智は同時に叫び、男から逃れるべくきびすを返して廊下を逆走した。後
ろから、男の吐く獰猛な息遣いと猛烈な足音が闇をつたって二人の耳に届く。
廊下を半分ほど引き返したとき、突然羽音が間近に迫った。
「!!」
 暦の目の前に、黒々と光るゴキブリが飛んできたのだ。
 暦は、とっさに首をひねり、かの昆虫から顔をそらした。
 ゴキブリの羽が、眼鏡にぶつかった。
 急に首をひねったための風圧と、ゴキブリのボディアタックの衝撃により、
暦の眼鏡は顔を離れ、床に転がった。            (8/13)

684 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:11 ID:cMcNx026
「あ、メガネが!」
 真夜中のこと、近眼の彼女には眼鏡がなければ何も見えない。
 しゃがみこみ、手探りで眼鏡を探し求めた。折悪しくもその手はかのゴキブ
リに触れた。全身に鳥肌をたてながら、手を引っ込める。
「よみ! 何やってんだ!」
 五歩ほど先に進んだ智が振り向きざまに呼びかける声に、はっとした。
 真後ろに、男。
 その右手に握られた刃物は、暦の背中目がけて振り下ろされた。
 間一髪のところで、身をかわす。
 だが、男の刃から逃れることはできなかった。
 刃の切っ先がざくりと音をたて、暦の右脚は、太腿からふくらはぎにかけて
一文字に切り裂かれた。鮮血がほとばしり、床が赤く染められる。
 血を滴らせる刃物を持ち直し、男は改めて暦の身体の真ん中目がけ突き出した。
 智は、走った。
 男の腕に飛びつき、刃物を奪い取ろうとした。
 智の両手が男の腕に触れようとした瞬間――
 智の両手は闇をつかんだ。

 男が、顔を苦悶に歪ませながら後ずさり始めたのである。
 男は、目を見開き、口をぱくぱくと開閉させながら、まるで何かに引きずら
れるかのように彼女たちから離れた。
 なんとか前に進もうと力むが、体がいうことをきかぬらしい。
 彼のもがく姿は、さながら大道芸人のパントマイムのようであった。

 何が起こったのかは、智にはわからなかった。
 なんにせよ、今のうちに逃げるのが得策だ。
 智は、足を負傷した暦を背負い、よたよたと旧校舎からの離脱を開始した。
「よ、よみ、重い」
「うるせえな……」
 幸い、男は追ってこなかった。               (9/13)

685 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:11 ID:cMcNx026
「横ちゃんのところで手当てしてもらおう」
 智は、背中の暦に言った。
 横ちゃんとは、彼女たちが出た中学校の保健の先生である。智が中学一年生
の頃に学校で初潮を迎えてパニックに陥っていたところを救われて以来、二人
はたびたび保健室を訪れ、茶などごちそうになりながら雑談に興じていたもの
だった。本名は横山というのだが、智が横ちゃんとあだ名をつけたのである。
 彼女は、中学校の近くに居を構えていたので、中学校付近で怪我をした際に
重宝する存在であった。
 
 くどい話はぬきにして、暦は横山先生宅で応急処置を受け、しかるのちに病
院で傷を縫ってもらったということだけをここに記しておこう。機能には支障
をきたすことはないが、傷は一生残るだろう、と、その際担当の医師は告げた。
 銀行強盗のほうは、無事旧校舎で警察に捕獲されたらしい。ただ、警察が彼
を発見したときには、かなり憔悴していて、目の下はくまで真っ黒に縁取られ、
頬はこけ、頭髪は一夜にして真っ白になっていたという。警察も、銀行の防犯
ビデオにおさめられた姿と逮捕時の姿があまりにも様変わりしていたことに、
驚きを禁じえなかったとのこと。               (10/13)

686 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:12 ID:cMcNx026
 さて、話は、無事に治療を終えて帰宅した水原暦に移る。
 暦が自室の机に向かおうとすると、旧校舎で落としたはずの眼鏡が、きちん
と畳まれてノートの上に乗っていた。
「あ、私の眼鏡……」
 暦が思わず眼鏡に手を伸ばすと、触れてもいないのに突然ラジカセから声が
流れてきた。
「旧校舎に忘れ物なんかしちゃだめよ」
 涼やかな少女の声であった。
 聞き覚えがあるような、ないような、微妙な声である。
「ちょっと昔、あそこで女生徒が一人殺されたの」
「?」
 ラジカセから聞こえる少女の声は、淡々と昔話を語った。

 なんでも、二十年ほど前にも同じような出来事がかの旧校舎で起こったのだ
という。女生徒が二人で夜の旧校舎に忍び込んだところ、時を同じくしてそこ
に潜んでいた暴漢が彼女たちを襲った。一人はなんとか逃げおおせたが、もう
一人は暴漢の思いのまま乱暴された挙句、ばらばらに切り刻まれて校舎の床下
に埋められたらしい。
 その後、なんとか逃げのびた女生徒の方も、自分が逃げたために友達を死な
せてしまったのだと思い悩んだ末、かの事件のあった日から49日目の夜、旧校
舎の三階で自殺したという。
 それが、かの声の語った昔話の大まかな内容であった。

「馬鹿よね……。誰も、あなたが私を見捨てただなんて思ってないのに」
 声は、少しの間途切れた。
「せっかく助かった命を自ら絶つなんて……ほんと……馬鹿」
 少女は、泣いているようだった。暦は、呆然と耳を傾けた。
 我にかえったとき、すでにかの少女の語りは終わっていた。
 録音テープには、出発前にセットしておいたラジオ番組の内容だけが残され
ていた。                          (11/13)

687 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:12 ID:cMcNx026
 夏休みも終わりに近づいた頃、ようやく旧校舎の解体作業は開始された。男
子生徒たちが廃校に隠匿していた数々の書籍も、事前に彼らによって回収され
たようだ。
 暦は、ブルドーザーにかの木造校舎が破壊されていく様子を、ぼんやりと眺
めた。この旧校舎で、二十年前に一人の女生徒が殺害された。自分たちが銀行
強盗に襲われかけたときに助けてくれたのは、彼女かもしれない。
 暦がそんな思いで崩れ去る旧校舎を見つめていると、いつ現れたのか、横山
先生が彼女の横に佇んでいた。
「あ、先生」
「こんにちわ」
 横山先生は、暦に笑顔で挨拶した。横山先生は、若くて美人だ。涼やかな瞳
と、首の後ろで切り揃えられたしなやかな黒髪は、高校の体育教師である黒澤
先生を髣髴とさせる。
「旧校舎、とうとう取り壊されるんですね……」
「そうね」
 暦の言葉に、横山先生があいづちをうつ。
 ふと、横山先生の表情が曇った。ためらいがちに口を開く。
「……私なの」
「え?」
「友達を見捨てて自分だけ逃げた女生徒は、私なの」
 横山先生の言葉に、暦ははっとして振り向いた。
 横山先生は泣いていた。
「馬鹿だって、言ってましたよ」
「……え?」
「せっかく助かったのに、余計な責任を感じて自殺するなんて、ほんとに馬鹿
だって……彼女が言ってました」
「……そう」
 暦は、ラジカセを通して一度だけ聞いた、かの女生徒の言葉を伝えた。
 横山先生は、うつむいて少しの間何かを考える様子を見せていたが、やがて
顔をあげると、ありがとう、と一言呟いて消えた。        (12/13)

688 名前:名無しさんちゃうねん 投稿日:2003/07/19(土) 00:12 ID:cMcNx026
「ここにいたか、よみ」
 後ろから、聞きなれた声が呼びかけてきた。
 瀧野智だ。頭に日差しよけの野球帽をかぶり、半袖のTシャツにGパンを履
き、片手には何やら紙袋をぶらさげている。
「お、とも」
 挨拶もそこそこに、暦は、自分たちの親しく付き合っていた横山先生は実は
幽霊だったのだ、ということを智に告げた。
「はぁ?」
 智は、怪訝な顔をして言い返した。
「横ちゃんは若い美人なんかじゃないぜ。年ももう50すぎてるだろ。それに、
あんた、この間傷の手当てしてもらったの忘れたの?」
「!」
 言われてみれば、そうであった。横山先生はいい年のおばさんである。
 自分は何を思い違いしていたのか……。

「それよりだ、よみ」
 智は、手にささげ持った紙袋を暦の顔前につきつけた。
「これをやろう」
 紙袋の中には、一対のニーソックスが入っていた。新品だ。
「その傷、痛々しいし、殿方たちに見せるのはちょっとはばかられるだろう?
だから、二学期からこれ履いて学校行け」
「ああ……」
 暦は、上体をひねって自分の右脚の裏側に目をやった。
 太腿からふくらはぎにかけて、盛大な裂け目を縫った痕がくっきりと浮き出
ている。医師の言ったとおり、かの傷は一生消えそうにない。
「まあ、一応もらっとくよ」
 暦は、智のさしだした紙袋を両手で受け取った。
「そのかわりといっちゃ、なんだけどさ……」
「宿題か」
「あたりー!」

 二人の晩夏における恒例行事が、今年も始まろうとしていた。  (13/13)