- 430 名前:あず青労同大阪派 教労委員会 ◆39Qwkk1o
投稿日:2002/12/28(土) 03:01 ID:???
- 【1】
年末、あるいは、暮れも押し詰まる、という言葉には、あわただしい、忙しい
という響きがある。だがこの頃は、三十日ともなると街は静かだ。会社が次第に
官庁と同じ様な年末休みをする様になったし、何より正月から店が開いているか
ら、日用品をあわてて買いに走らなくてもよくなった。
特に、八百八寺、と言われるこの京都の街は、むしろ正月三が日の方が賑やか
である。
「あれ、ともちゃんがおる」
寮の玄関で、歩が声を上げた。壁の一角に名札がずらっと掛けられていて、外
出時は本人がこれをひっくり返して裏の赤文字の方を向けておく、というのがこ
の寮のルールだ。都合二百人近い寮生がいるが、時期が時期だけに名札のほとん
どが裏返っていて、「滝野智」という黒い文字は、嫌が応にも目立った。
「東京に、帰らへんのやろか」
それはお前も同じだろう、と言われるかも知れないが、歩はこちらがホームグラ
ウンドであり、両親が帰阪して来るのを親戚の家で待っている。ちょっと忘れ物
を取りに来て、ともの札を見つけた次第だ。
- 432 名前:あず青労同大阪派 教労委員会 ◆39Qwkk1o
投稿日:2002/12/28(土) 03:02 ID:???
- 【2】
冬晴れの陽が差し込む廊下を進みながら、歩はともの事を思い出している。て
っきり一人だけで関西へ戻るものだと思っていたら、ともが関西の、それも自分
の第二志望と同じ大学を、やはり第二志望で受けると聞いた時はうれしかった。
もちろん、結果としてともと同じ大学へ行くと決まった時はもっとうれしかった。
ともにしても同じ事で、どちらからとなく同じ寮を選び、休みのたびに京都の街
や、時には大阪や神戸へ、二人で遊びに行った。
「地元やのにうまいこと案内できんで、どっちが連れてるのか分からんかったな
…そう言えば、私に大阪いうあだ名つけたのも、ともちゃんやったっけ…」
今はもう、ともと二人の時にしか聞かなくなったあだ名を歩が思い出したとこ
ろで、彼女はともの部屋の前に着いた。明かりは消えている。しいんとしていて、
人の気配はない。
「…札をひっくり返し忘れただけかも知れんなあ…」
と、歩が立ち去ろうとしたその時、扉の向こうからかすかに声がした。
「………よみ……」
それは間違いなくともの声だったが、ついこの間までのともからは考えられな
い様か弱い声音に、歩は胸騒ぎを覚えた。
「ともちゃん、どしたん?!なあ?!」
歩が扉をノックして呼びかけるが、ともは出てくるどころか、返事もしない。
【3へつづく】
- 439 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆39Qwkk1o
投稿日:2003/01/06(月) 02:56 ID:???
- 【3】
歩がたまりかねて扉を引くと、鍵は開いており、薄暗いともの部屋が彼女の視
界に飛び込んできた。倒したゴミ箱の中身が畳に散り、饐えた様な匂いがした。
ともは、胸元から上を掛け布団から出して、伏せっていた。歩に気づき、顔を
こちらに向けたが、目はうつろで、顔はやつれ、死人の様に青白かった。
「ど、…どしたん!!」
ともの変わり果てた姿に歩は大いにあわて、靴のままともの枕元に駆け寄って、
布団越しに彼女の体をゆすった。
「……あ、大阪…」
「ともちゃん、大丈夫か?!」
「………よみが、…いなくなっ…ちゃった。」
ともはけだるそうに、それでも懸命に歩を見つめてそれだけ言うと、がくっ、
と顎を下げ、目を閉じた。
「と、ともちゃん、ともちゃあん!!」
歩は狂ったようにともの体を揺さぶり続けたが、ほどなく自分ではどうしようも
ない事を悟り、玄関に向かって廊下を走り出した。
歩は、あらためて、より最近のともとの事を回想していた。
そう言えば、一月近くともちゃんと会ってなかった…。休講が多かったもんや
から、さっさと豊中のおばちゃん家に行って、回数券で大学通うてたもんな。…
あ、その前の日や!掃除してたらともちゃんが来たがな!!…今考えたら、上が
りもせんと、えらい無口で…何か変やったで……あれが、何かのサインやったん
か?!………
歩が、親友の大事な変化を見落としていた事に気づき、自分を責め始めようと
したその時、彼女の足が玄関にたどり着いた。
玄関の受付には、無精ひげを伸ばしてどてらを羽織った三十男がいた。
「せ、先生!」と、歩はその男に呼びかけた。
「あれ、春日ちゃん。早くに帰ったんやなかったか?」
いぶかる『先生』に、歩は手短に事情を話し、救急車を呼んでくれる様に頼んだ。
- 440 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆39Qwkk1o
投稿日:2003/01/06(月) 02:58 ID:???
- 【4】
『先生』は、二つ返事でくわえタバコを灰皿に置き、黒電話に手を掛けたが、
「あ、『しっぽ』はんがおるわ」
と言い、黒電話から手を離して携帯電話を取り出した。
「…ああ、ワシや。滝野君っておるやろ、そう、一番隊の屯所のトイメンにおる
一回生の女の子な。そこへな、道具持ってこっそり来てもらえへんか…」
電話が終わると、『先生』は受付から出て、一緒にともの部屋に行こうと歩を
促した。歩の顔に、ほんの少し安堵の色が浮かんだ。
『先生』と言っても、大学の先生ではない。ここの寮生、すなわち学生だ。大
学を二回出た後どこかの高校の教員になり、同時にそのまま三度目の学生生活に
入ったというもの凄い経歴の主で、寮生活は十年とも十五年とも言われる。それ
ゆえ『先生』という呼び名は教職ゆえではなく、時代劇で用心棒を『先生』と呼
ぶノリで付けられた様だ。
この『先生』と、いましがた先生が呼んだ『しっぽ』というエンジニア上がり
の医学生、それに自室でSEを開業しながら仏文科に在籍する真戸さんという大
男の三人が、この寮の「主」である。
「主」ともなれば当然好かれ嫌われはあり、とりわけ寮自治自体を面倒がり、
大学に管理してもらって各自の好きにしようなどと考える一部の者には目の上の
たんこぶである。だが、歩たちは、知っている事を親切に教えてくれ、先輩風な
どみじんも吹かさない彼等に、自分たち寮生への愛情を見てきた。確かに、寮長
でも自治委員でもないばかりか、それぞれ実家や家庭があるというのに寮に残り、
かつ救急車を呼ぶ大騒ぎを避ける気遣いを見せてくれる、という芸当は、アカの
他人にはできないだろう。
さて、筆者が長々と寮の説明をしている間に、歩と先生とがともの部屋の前に
到着した。『しっぽ』さんが、その名の由来である二つに結んだ長髪を掻きなが
ら、聴診器がはみ出した鞄を置いて待っていた。
【5へつづく】
- 499 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆mHcG5gok
投稿日:2003/01/19(日) 23:13 ID:???
- 【5】
しっぽがともの部屋から出てきたが、鞄は持たず、かわりに何かで満たされた
洗面器を持っている。彼は袖まくりして、額に汗が浮かんでいる。
「歩ちゃん、ともちゃんは大丈夫やから、ちょっと待っててくれるか」
いつもにこにこしていて、隠し事などしそうにない先輩が、眼鏡に手を添えな
がら深刻な顔で歩にそう言うと、背を向けて元来た方へすたすた去っていく。歩
はにわかに不安を覚えた。後を追って話を聞きたかったが、背中がそれを拒否し
ている様に見えた。
その頃、京都からずっと離れたとある山中で、あえぎながら山道を行くよみの
姿が認められた。
登山特有の見るからに重そうなリュックを背負って、毛のシャツにズボン、そ
れに革の登山靴。こしらえはしっかりしているが、若い女性の登山にしては無謀
なことに、連れはなく、彼女一人であった。
「………」
もう何日も身繕いをしていないらしく、前髪はくせだらけで、服は泥だらけだ。
顔がやつれ、目の焦点が時折定まらなくなる。食事もきちんと摂っているかどう
かも怪しかった。
標高がそれほどでもないのか、雪はない。が、しばしば冷たい強風が吹き、急
な傾斜も見受けられる。そして、登山の経験はさほどないだろうよみの単独行。
……あえて縁起でもない事を言わせてもらえば、自殺行の様なものである。
「………」
それでも、彼女は無言で、枯れた下草の混じる山道を登っていく。山の陽はと
りわけ早く、もう隠れ始めている。
「睡眠薬自殺?!」
「……その可能性が一番高い、いう程度なんやけど」
受付で、先生としっぽとがひそひそ話をしている。
- 500 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆mHcG5gok
投稿日:2003/01/19(日) 23:14 ID:???
- 【6】
しっぽは医学生と言っても、とっくに医師免許を受けて大学院に在籍している。
のみならず、研究テーマがそういう種類のものらしく、救急患者を3年近く診て
いる。大事だから慎重に言っているだけで、彼の経験に基づくカンは睡眠薬自殺
をはっきりと指していて、それに間違いはないのだろう。
「せやから、命は大丈夫でも、むしろこの後が問題なんや…」
「そうやな…」
二人は茶渋まみれの湯呑みからコーヒーをすすった。しっぽは机で手を組んで
うつむいたが、先生は吸いかけのタバコをくわえると、上を向いて腕組みし、大
きく煙を吐いた。天井を眺める目の色が、こころもち明るい。念のために考えて
いるだけで、頭の中では結論が出ている様だった。
「春日ちゃん、実は滝野君はな…」
「ちょっと先生!何考えてはるんですか!!」
先生は歩に声をかけるなり、しっぽの見立てを教えようとした。しっぽが先生
の背中を引っ張って止めに入ったのは、無理もない事だろう。
「何や」
「いくら友達でも、まずは保護者とかに…責任がどうとかやなくて、歩ちゃんが
受け止め切れへんかったらどないするんですかっ」
「遠くの親戚より近くの他人、言うやろ……逆にこの頃の親は受け止め切れへん
かも知れんで」
「……」
しっぽは何か言葉以上のものを先生から感じ取ったのか、それ以上引き止める
のをやめた。先生は歩を向き直り、話を続けた。
「……というわけや。春日ちゃん、何か心当たりあるか」
「………あります」
泣きそうなほど沈痛な面持ちを作りながらも、思いのほか冷静に、歩は答えた。
「ワシらは、春日ちゃんに任すよりない事や思うのやけど、どやろ」
「はい…大丈夫です」
前の答えより間を置かず、前より力のこもった返事が返ってきた。
- 501 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆mHcG5gok
投稿日:2003/01/19(日) 23:15 ID:???
- 【7】
「そうか……ほな、頼むで」
先生はあっけにとられるしっぽを促して、玄関の方へ戻って行った。歩は二人の
後ろ姿にぺこりと一礼すると、ともの部屋のドアノブに手を掛けた。
陽は建物の影に入ってしまい、ともの部屋の明かりは蛍光灯に代わっている。
寒々しいが、スチームを入れたので暖かいし、何より歩が持ってきた即席スープ
の匂いが部屋に充満している。
「そうか〜、もういらんのやな〜」
歩の差し出した、わずか三杯目のスプーンに、ともがかぶりを振ると、歩はそ
う言ってあっさりとお椀を引っ込めた。それでいて、冷たい感じは全くしない。
それまで何時間も黙って、ただただともの枕元に座っていた事と合わせ、なか
なかできる事ではない。普通は無理に何か話しかけようとしてしまうものだが、
取って付けた様な話になり、いい結果はもたらさない。言葉は出ないがとにかく
そばにいてあげたい、というのなら、それでいいのである。食事をどこまですす
めるかも、同じ事だ。
「おつかれさん。ほな、また横になろか〜」
ともは食事を摂るために上体を壁に寄りかからせていたので、それを寝床に戻
すのを手伝うべく、歩が彼女の両肩に手を掛けた。
その時、いきなりともが、がばっ、と歩の胸にしがみついてきた。
「ど、どしたん?」
次いで、すすり泣きが漏れ、ほどなくそれは号泣に変わった。蒼白だったとも
の横顔が、朱を差した様に赤くなっている。歩は一瞬の驚きから冷めると、とも
を抱き返して、母親が子どもをあやす様に彼女の背中をゆっくりと叩いていた。
- 502 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆mHcG5gok
投稿日:2003/01/19(日) 23:16 ID:???
- 【8】
そのまま、どれぐらい時間が過ぎただろうか。
「…お、大阪……」
「ん?」
「…ごめんね」
「別に、かまへんよ」
「…大阪や、先生やしっぽさんがこんなに心配してくれてるのに、私、全然元気
になれない……まだ、死にたいって思ってる…」
語尾が消え入る様な涙声に、歩はむしろ言葉を強めて返す。
「そらそうや」
「……?!」
「だって、…私が、聞けてへんやろ…ともちゃんの、よみちゃんとの…話……」
覗き見する様に少しだけ顔を上げたともは、潤みかけた歩の大きな目をそこに
見た。
話は、夏休み明けにさかのぼる。
ともは、後期が始まってほどなく、いつだったかの学級委員長を決める時の様
なノリで軽はずみに手を挙げ、大学祭実行委員になった。
大学祭ともなれば実行委員会もそうとうな規模であるが、サークルやゼミの代
表として渋々やって来て、会議がなるべく早く終わるように、そして自分たちに
割り振られる仕事がなるべく少なくなるように、と考えながら座っているメンバ
ーが大半を占める。
いきおい、学生自治会の役員をはじめとする中心メンバーに負担がかかり、彼等
は大学祭の準備にかかりきりとなるわけだが、生来の目立ちたがり屋であるとも
は、その中心メンバーにわざわざ立候補したのだった。
- 503 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆mHcG5gok
投稿日:2003/01/19(日) 23:16 ID:???
- 【9】
会議や準備に参加団体を集め、不満が出ない様に場所や仕事を割り振る。とも
すれば場所や物の貸し出しを渋り、口を挟もうとする大学と連日団体交渉。大学
の近隣や他大学への宣伝、事故防止のための警備………多忙を極めたが、あちこ
ち駆け回ってしゃべりまくる仕事に、ともはすっかりはまった。何より一緒に活
動するメンバーは、利害抜きでそうしたことを進んで引き受けるだけあって、個
性豊かないい人達であり、彼等と苦労を共にした後に囲む宴席は格別だ。
ずっと帰宅部で通してきて、誰にもつかず離れずでやってきたともが、熱中す
る事や苦労を分かち合える仲間、それにちょっとやそっとでない達成感を手にし
た事は大きな成長だった。が、いかんせん仕事の量が半端でない上、夜間部も昼
間部も合同なので、寝る時間以外ほぼ張り付きになる。おのずとその分、遠く離
れているよみに割く時間は減っていた。
「別に、話をしなくなったわけじゃないのよ……長くは話せなかったけど、こ
っちからも電話したし…よみから電話がかかってくるのは、うれしかった…。け
ど、その頃よみが話した事って、あんまり覚えてないんだ………きっと、私が一
方的に、こっちの楽しかった事とかグチとか、聞かせるばっかして……」
「…ふうん……」
ともは、ちょくちょく東京に帰ってよみと逢瀬を楽しんでいたのだが、そんな
こんなで気がついて見ると、後期に入ってから一度も東京に帰っていなかった。
そこで、大学祭終了から約一月を経てようやく実行委員会が解散した日、東京に
行く日を打ち合わせるべく、その場から電話をかけたのだった。
「日を置いて何度かけても、出なくて…そのうちに『電波の届かないところ』
になって……留守電入れても、なしのつぶてで…」
「………」
「そしたら、よみのお母さんから電話がかかってきて、よみが何日も家に帰らな
い、って……すごく思い詰めたみたいで、元気がなかった…って……」
- 504 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆mHcG5gok
投稿日:2003/01/19(日) 23:17 ID:???
- 【10】
あわてて東京に帰り、あてもなく心当たりをさまよった挙げ句、疲れ果てて京
都に帰ってきたのは、歩が寮を出た後だった。
「よみが、…いなくなっちゃった……私のせいで…」
ともは自室で、ろくに食事もとらずに、自責の念に押しつぶされる日を送った。
ある日、東京に行った折に、よみの母親に乞われるまま彼女の部屋で手がかりを
探した時に出てきた、薬の袋が目に止まった。神経科のゴム印が捺され、用法欄
に「不眠時」とあれば、ともにも何の薬なのか察しがついた。見つけたのをよみ
の母親に知らせず、こっそり持って帰って来たのだった。
「よみはこれで、眠れない夜を紛らわせて…きっと、どっかの寒い空の下でこれ
を飲んで………。……よみ、待っててね……」
という次第を、ともがつっかえながら語り終えた頃には、歩の頬にも涙が伝っ
ていた。
歩の胸で止まらない涙に悶絶していたともが、いきなり叫び声を上げて歩を突
き飛ばし、立ち上がった。不意打ちを食って倒れた歩が、ともの移動した方を見
上げると、机の引き出しからハサミを取り出したところだった。
ともちゃん、自分を刺す気や!!ともの憑かれた様な眼差しが、歩にそういう
直感を走らせた。
「ともちゃん!!やめやーっ!!!」
歩があわてて立ち上がったが、間に合うかどうか?!
- 505 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆mHcG5gok
投稿日:2003/01/19(日) 23:18 ID:???
- 【11】
と、その時、ドアを蹴破って巨大な男が部屋に飛び込み、歩より早くともに飛
びついた。
「真戸さん?!」
真戸と呼ばれたその大男は歩の呼びかけには答えず、横向きに抑え込んだとも
の手からハサミを取り上にかかった。ともはとっさの出来事に放心していて、ハ
サミはあっさり大男に取り上げられた。
「こんな危ないもんで、おいたしちゃあかんなあ。ガハハハハ」
真戸はともを放すと、そこで初めて歩の方を向いて笑った。腹をゆする様な豪
傑笑いが、先生、しっぽと並ぶこの寮の「主」の特長である。
と、真戸の笑いにつられて歩の口元が緩んだ。つい今しがた、友人が死ぬかど
うかという事態だった事はもちろん忘れてはいないのだが、真戸の豪傑笑いには、
そういう作用がある。起きあがったともの顔も、笑いとは程遠いものの、別人の
様に落ち着いていた。
真戸は後ろに流した洗い髪を差して、
「風呂がええ具合や。はよ入り」
と言って、鴨居をのれんの様にくぐり、巨体をゆすりながら出ていった。
「…ともちゃん、お風呂いこか」
「………」
「しばらく入ってへんのやろ。匂うでぇ」
歩の関西人らしい単刀直入な言葉に、ともはこくんとうなづいた。
- 796 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆ttKIMURA
投稿日:2003/12/12(金) 11:40 ID:???
- 【12】
あれから一年。京の町に、再び年の暮れがやってきた。
大文字山の方へ落ちていく夕陽を、ともは今年も帰郷せず、独りうつろな目で・・・・・
ではなく、その横にはよみが、同じ夕陽を浴びてたたずんでいた。
だが、この二人ならば掛け合いの一つもありそうなものだがその気配はなく、少し前に、
「・・・きれい、だな」
「・・・・・うん」
という会話を交わしたきり、二人とも黙っている。
- 797 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆ttKIMURA
投稿日:2003/12/12(金) 11:41 ID:???
- 13】
去年のあの日、あれからの、どこかの山あい。
限られた登山者の間で「温泉小屋」と呼ばれている、初老の夫婦がひっそりと営む一軒宿。
5キロほど先の人里から、狭い急坂ながらも舗装された道が通じてはいるが、バスの便も送
迎もなく、呼び名通り「山小屋」だ。明日あたりから正月登山の客がやって来るそうだが、
今日の泊まり客は、すっかり日が落ちてから戸を叩いて宿の夫婦を驚かせた、よみ一人きり。
「お加減はいかが?」
小屋の奥さんが、ガラス戸越しに声をかける。やや遅れて、よみの沈んだ声。
「・・・あ、結構、です」
「それにしてもびっくりしたわ。こんな時期にフリのお客さんが来るなんて」
無茶な行動を言外にたしなめる調子も入っていたが、なぜか険悪な感じがしない。
「・・・すみません」
「いいえ、ごゆっくりね」
「ふぅ」
湯気の中で、よみは人心地ついたかの様に息をもらした。とはいえ、表情には相変わらず
色濃い曇りがあり、山歩きを終えて一息、などという雰囲気とはおよそかけ離れている。
地面に四角く穴を掘り、コンクリートを打っただけの湯船から天井を見上げると、湯気の
向こうに裸電球がぼんやりと灯っている。腰の高さほどのトタンの仕切りの先は地底の様な
闇で、曇が出てきたのかまたたく星もわずかだ。傾いた鉛管が浴槽に湯を注ぐ音だけが、時
が止まっているのではないことを知らせている。
どれぐらい時間が経っただろう。憔悴した眼鏡のない顔に迷いの表情を浮かべ、外の闇を
見るともなく見つめていたよみは、不意に、ざぶん、と音を立てて立ち上がった。
何か悲痛な決断に至ったのか、それとももっと前向きな判断をしたのかは分からないが、
表情に決意の様なものがみなぎっている。氷点に近い寒さが、闇に白く浮かぶ裸身を猛烈に
突いているはずだが、よみは身じろぎもしなかった。
- 798 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆ttKIMURA
投稿日:2003/12/12(金) 11:41 ID:???
- 【13】
去年のあの晩、あれからの、京都の片隅。
寮の浴室に、バッシャーンと、勢いよく水音が、二度三度と響く。
相変わらず抜け殻の様な表情で、髪からしずくをたらして洗い場に座るとも。彼女が眺め
るともなく見ている鏡には、肩を落とした自分の裸の後ろに、石鹸をタオルにこすりつける
歩が写っている。
(よみちゃんごめんな〜、けど変なことはせえへんから・・・)
心の中で妙な謝罪をしながら、歩はともの背中を流し始めた。他に誰もいない銭湯の様な
広い浴室に、ゴシゴシゴシゴシ・・・と、タオルで体をこする小さな音が規則正しく響く。
「ともちゃん、寒ないか?」
浴槽から立ちこめる湯気が空気を風呂場らしくしつつあるが、沸かしたばかりで、しかもこ
の広さだから、まだ空気が冷たい。だが、ともはかぶりを振った。
「ならええわ・・・けど・・・・・私、寒い」
『けど』のところで、我慢の限界と言わんばかりに歩の笑顔が崩れた。腕や肩はもとより、
胸元や腰回りにまで鳥肌が立っている。
「ふぅ・・・やっぱ風呂は風呂に入らな・・・」
湯船に入らなければ、と言っているのだろう。歩は背中を流すのを中断してともを連れて
浴槽に浸かり、
「そやろ?」
と、ともの肩に触れながら彼女の顔をのぞき込むと、ともは目を真っ赤に腫らして涙を流し
ていた。
その時である。
ともが歩に抱きついてきた。
「・・と、ともちゃん?!・・・」
さっきより落ち着いて見えるのに相変わらず抱きついてくるのも妙だが、何より今度は裸
だ。歩は違和感たっぷりの感触をあわてて振りほどこうとしたが、きわどい所で「今それを
やったら相手はどう感じるか」に思い至った。
歩はとりあえず、ともの頭に手を回し、片手でその頭を撫でた。
「大阪ぁ・・・ひくっ、つらいよ・・・」
ともは歩の肩のあたりで、嗚咽しながら、つらい、どうしよう、といった言葉を繰り返し
た。歩はただ、「大丈夫、大丈夫や」と繰り返すしかなかった。
浴室はすっかり暖かくなり、湯気で向こう側がかすんでいる。歩は身も心もけだるくなっ
てきた。違和感をこらえていたはずのともの体の感触が、やわらかい布団の様に思えてきた。
「・・・大阪ぁ」
ともものぼせてきているのか、泣きっ面を抜きにしても顔が腫れぼったい。
「・・・抱いて・・・」
「・・・・・!!」
歩にも同性にぽーっとする気持ちがないわけではないから、その場しのぎだが効果的な
「慰め」になるかもしれないその行為は知っている。のみならず、ともの片足を挟む格好に
なっている両足にこころもち力が入り、頭を包んでいた両腕は肩を抱いている・・・・・。
・・・・・けれども、歩は先ほど心の中でよみにした「約束」を大事にした。そして、先
ほどから言いたくて言えなかった、自分の「勘」をともに打ち明けた。
「・・・・・帰ってくる、きっと帰ってくるよみちゃんに・・・怒られるのいやや」
- 799 名前:あず青労同大阪派教労委員会 ◆ttKIMURA
投稿日:2003/12/12(金) 11:43 ID:???
- 【15】
ともは、『しっぽ』が処方してくれた鎮静剤で眠りについた。そして
歩は、受付の奥にある部屋で長い間、しっぽと『先生』とで話し込んだ。
「・・・・・・」
「なあ・・・力になりたいけど事情が分からんとどうしようもない・・・分かるやろ」
医学部に入る前は機械工だったというしっぽは、炬燵の台に散らばった何かの部品を組み立
てながら歩に話しかける。しかし片手間に話をしている感じはせず、お国なまりに由来する
ボソボソした語り口はむしろ暖かく聞こえる。彼流の気の遣い方なのである。
差し向かっている歩にもそれは通じている様だが、それがかえって迷いを長引かせるのか、
「せやけどなあ・・・・・」
と、畳を人差し指で掻きながら下を向いたままだ。そして二人とも沈黙してしまう。
「ともちゃんの人間関係の事で、人によう言わん話をワシは知ってるんやが」
炬燵から出て、窓を開けて煙草をふかしていた先生が、少し大きな声で何度目かの沈黙を
破った。
歩はつとめて驚きを隠そうとしたがそんな芸当ができるはずもなく、思わず先生の方を見
た彼女は、ただでさえ大きい目を飛び出さんばかりに見開いていた。瞳に、驚愕に交じって
恐怖の色が現れている。
「と言うてもぜんぜん悪い事やなしに世間のものの見方が狭いだけなんやけど・・・その事
が関係あるんちゃうか?」
先生は少し語調を和らげてそう続けると、歩の方を向き、ニヤッと笑った。がっちりした
体躯で、「背中に彫り物がある」などと噂される寮の主の「ニヤッ」はさらに恐いはずだが、
歩は目を丸くしつつも、その目から恐怖の色を消している。
「・・・どうして、知ってるん・・・」
「何度か遊びに来てる『東京のお友達』やろ。見たら分かるがな、ワシら何年学生見て来て
る思てんねん。で、女の子があそこまでになる悩み言うたら八割方は色恋に決まってるがな」
「・・・まあ、とりあえず今言えるのは・・・それを知った上で『何とかしたい』と思てる、
おせっかいな大人がここに二人いる、いう事やな」
いかにも関西風という早口で謎解きをする先生の話を、しっぽがボソボソと本題に戻した。
歩は、よみの失踪、そして大切な二人の友達の事を、余すことなく二人に話し、涙を流し
て助力を願った。とは言え歩の語り口は例によって冗長な「嬢(いと)はん」調だから、す
べて話し終えた頃には日付が変わっていた。
「・・・・・」
先生としっぽは、「失踪した人間を捜す」という課題の大きさに、揃って無言であらぬ方
向を眺めざるを得なかった。そして気を取り直して歩の方に向き直ると、彼女は炬燵の上に
肩から上を投げ出して熟睡していた。
ストーブの上の薬缶が、コトコト言いながら湯気を吹いている。
【16へ続く・・・次回投稿でようやく最終回】